国家の役割

国家の役割は何だろう。提案するのは、住民の実質的な自由を保障することだ。それ以外はない。

しかし、これは狭くない。実質的な自由を保障するために、責務は多い。

まずは、国の安全保障だ。外国に制圧された国の住民には本質的な自由があるかというと、ないのは明らかだ。防衛は国家の役割の一部だ。

そして、国内で暴力を恐れたり、詐欺に晒されたり、所有物を奪われたりするひとは、本質的には自由ではない。恐ろしい環境には抑制されるからだ。だから、治安の保護も国家の責務だ。

まだ続く。医療はなければ、自由が大きく縛れる。病気になるときはもちろんのことだが、病気や怪我を避けるためにやりたい行動を辞めることもある。だから、医療提供も国家の義務だ。社会福祉も、病気以外の事故等に対応するためには必要だ。

教育もそうだ。教育を受けない限り、できないことは多い。できないことは多ければ、実質的な自由は制限された。従って、国家には教育を提供する責務もある。

行動を可能にする整備は、インフラだ。東京と青森の間に新幹線があれば、自由度が増す。だから、インフラの整備も国家の責務だ。

それに、有力者が周りの人の自由を抑制することは多いので、規則で弱者を助けて、自由を保障することも国家の責務だ。

もちろん、法律上の自由を保障するのは第一の責務だ。法律上の自由はなければ、実質的な自由があるはずはない。

以上の責務を果たすために、莫大な財産は必要だから、自由を制限せずに税金を課す義務もある。(権利ではなく、義務だ。責務を果たすには必要なことを調達するのは義務だ。)

だから、国家に自由を保障する行動しか許さなくても、責務は十分あると思う。これ以外の役割、自治体に委ねるべきだ。農業政策とか、都市計画などは、民間企業に委ねないほうがよいだろうが、県や市で行うべきだろう。国家は、県の方針が自由を縛らないことを確認して、見守る。はっきりした役割分担がある。

平成105年

最近、伊勢の神宮の式年遷宮についての記事を読んだが、将来の遷宮について触れたら、80年後の「平成105年の式年遷宮」について語った。

言い方は面白い。神宮式年遷宮が80年も続くのは当たり前だろう。もう1300年の歴史を持っている。油断できる訳はないが、予想として80年後の遷宮が斎行されると予想してもかまわない。しかし、あの年が平成105年であるのはあり得ない。だから、なぜこの言い方をするのだろう。

明治時代の前には理屈が会った。年号が変わるかどうかは事前に定められていなかったので、もしかして100年以上一つの年号が続く可能性はあった。実例はないが、可能性は否定できなかった。そして、年号なしに年を指す方法はなかったので、当然な手段だっただろう。

現状は違う。年号が御代と一緒に変わるのはもう法律で定まったので、平成が50年に至る可能性を認めても、100に及ぶことはない。平成105年は存在しない。そして、指したかったら、簡単にできる。2093年だ。

2093年というのは、西暦だから、和暦を使いたい場合、避けたい人は少なくないと思う。特に、神社関係の人は、なるべく西暦を避ける。伊勢の神宮の崇敬会からの振込用紙には年月日はもちろん西暦だが、お詫びが付く。和暦に改めようとしているそうだ。そして、議員会館に入るときに、年月日を和暦で書かなければならない。(一回うっかり西暦で書いたが、受付で直してもらった。)将来について語るときも、和暦を使ってもいい。平成30年は、本当に平成30年になる可能性はある。しかし、遠い将来について語れば、西暦を避けるために嘘をつける。これは恒例の手段だと思うが、だからこそ面白い。

いつでも使える和暦が欲しかったら、大宝にしたらよい。大宝は、日本の最初の独自の年号であった可能性は高いそうだ。(7世紀の年号は、7世紀の木簡などに現れないそうだから、8世紀に作成された可能性は高いという。)意味もよい。そして、西暦との換算は簡単だ。西暦から700を引くだけだ。今年は、大宝1313年だ。確かに、改元はもう昔のことだから、これも間違いだが、平成105年も間違いだ。どちらの間違いを認めるかという問題だ。

特権撤廃

自由を保持するために、特権を撤廃するのは重要な原則だと思う。「特権」というのは、特定された人物にしか認められない行動を意味する。

具体例を挙げよう。イズラエルで、ユダヤ教の一つの宗派の教徒は、徴兵は免除される。このような特権を撤廃するべきだ。しかし、その方法は、誰にも徴兵を課すことではない。むしろ、徴兵そのものを撤廃したほうがよい。なぜかというと、これから説明する。

特権を認める理由は、ある義務や制度が宗教の自由に触れるからだということは多い。宗教の場合を典型例として考えよう。このような問題があれば、制度や義務を見つめるべきだ。人の重要な自由を束縛するのは明らかだ。だから、質問は、この自由を束縛するべきであるかどうか。束縛するべきであれば、いかに宗教を理由として訴えても、認めるべきではない。一方、この宗教の教徒に許してもよかったら、一般に自由にするべきだ。

この方針をとらないと、「本当の宗教」の定義が重要な法律の問題になる。「本当の宗教」であれば、自由にするべきだが、「偽物の宗教」であれば、自由にしないからだ。しかし、国家が「本当の宗教」を定めること自体、宗教の自由への大きな制限だ。宗教は、人が「宗教」と自称しても認めるべきだ。将来の尊い教祖である可能性もある。しかし、そうすれば「宗教」に限る特権には意味はない。何かしたかったら、その行動を教則の一つにする宗教を立ち上げても十分だ。だから、束縛自体を考えるべきだ。許せれば、一般に許す。許す訳に行かなければ、信者にも許さない。

これは宗教だけではない。「家族」、「人種」、「共同体」なども同様だ。厳密にいえば、「職業」もうそうだ。警察官には一般人の権利を勝る権利を与えないほうがよい。一見で無理のように見えるので、本当に無理であれば自由を一般に保つために制限が必要かもしれない。しかし、検討すれば、問題がなくなる可能性がある。警察官には組織や訓練があるので、権利を使うのは警察官になるが、一般人にもあっても問題にならない可能性はある。弁士は職業より、国民から委託された資格だから、委託を受けていない人がこのようなことはできないのは問題ではない。(必要であれば、警察官は同じような理屈で特権を認められるが、最低限にするべきだ。)

特権を認めれば、自由をむやみに束縛することがある。著しく問題になる場合、特権で穏和にするので、一般の人からこの自由をさりげなく奪う。しかし、このような抜け道を認めなければ、自由を本当の意味で重んじるしかない。

真由喜物語

最近、真由喜の遊びには二つの傾向が目立ってきた。

一つは、一人での遊びだ。私やゆり子と遊びたがる場合ももちろんあるが、私たちを排除して遊ぶことも増えている。これは普通の成長の過程だと思うが、真由喜も普通の子供のように成長している証拠として、嬉しい。

もう一つは、物語だ。真由喜の遊びで物語を作ることは多いようだ。お絵描きの場合特に目立つ。なぜかというと、絵が物語になるからだ。日本舞踊のお稽古で自分の出番を待っている間に紙芝居を作るのが恒例になったし、家でも絵と絵をつなげて話を成り立てることは多い。身近な話もあれば、妖精や姫様の話もある。

そして、人形などと遊んだら、話を作る。独り言で話をたてるので、私たちには一部しか聞こえないが、話の展開は見える。私を遊びに巻き込める場合も、話がある遊びになるのは大半だ。

私にとって、この傾向は大変嬉しいのは言うまでもないだろう。これから、真由喜の物語の作成を促進する方法を考える。一緒に物語を作る遊びを提案したり、私の子供の頃からの趣味のTRPGも紹介するだろう。仕事をやっと克服できたような気がするので、真由喜とより多く時間を過ごせるようになるといい。