政治家を軽蔑するときよく言われるのは、政治家には倫理観はないという批判だ。普段の意味は、政治家は自己中心で、国民などのことを一切考えないと思うが、最近自由についてより考えて、政治家には自分の倫理観に違反する義務があるのではないかと思ってきた。
簡単に説明すれば、政治的に「自由」を考えれば、倫理に違反する行為をする自由だ。政府が良しとする行為に限った自由は自由ではない。例えば、倫理的にお酒を飲むべきではないと思っても、お酒を飲む自由を保つべきだ。この一点で自由主義が既に難しい立場になった。倫理に違反する人を止めようともできないなら、政府の役割は何だろうと思う人もいる違いない。しかし、私の考え方によると、政府の役割は、本格的な自由を保ち、拡大することだ。この役割を果たすために住民の生活に関与する必要はもう十分あるので、それ以上の義務を課さないほうがいいだろう。軌道に戻ったら、国家が倫理違反を禁じれば、その行為を許す倫理を禁じることになる。宗教の自由は著しい例だろう。殆どの宗教によると、最悪な倫理違反は、他の宗教に従うことだそうだ。だからこそ歴史上のキリスト教徒の為政者が他の宗教を禁じたわけだ。
これまでであれば、政治家本人が倫理違反しない可能性がある。しかし、倫理の多くは、倫理違反を防ぐように働くように命じる。だから、住民の自由を重んじる政治家は、自分の倫理に違反するしかない。
それでもより深刻な問題もある。次の形をとる倫理がある。「幸せをなるべく増やしたら広げたりするように行為せよ。」幸せの代わりに成長などを求める倫理もある。しかし、自由を重視すれば、それは住民が自分の幸せを損なう行為を許すことだ。禁じれば、住民がより幸せになるのは確実だ。間違える場合があると認めても、現実と正反対な意見を持つことは少ないので、幸せを損なうと思われる行為の全てを禁じれば、幸せが増すはずだ。しかし、自由を重んじれば、そのようなことはしてはいけない。政教分離と同じように政倫分離は必要だろう。政治家は個人として宗教的な行為を行ってもいいし、個人としてある倫理を唱えてもいい。しかし、政治家として、倫理を促進するべきではない。政治家として、自由の維持と拡大を目指すべきだ。
自由を基準とすれば、ある行為で当事者が自分の幸せや成長を損なう事実は、禁じる理由に至らない。抑制する理由にも足りないだろう。そして、他人の幸せを損なっても、他人の自由に触れない限り抑制するべきであるかどうかは簡単な問題ではない。宗教の原理主義者の幸せは、別な宗教に従う人の存在に損なわれるが、これが宗教を禁じる理由にならない。だから、自由を守護する政治家であれば、避けたほうがいい状況の実現を予想して、許すことは多いだろう。本当に窮地に強いられることだ。