自由と嫌な思い

自由の実現を考えれば、問題がすぐに思い浮かぶ。例えば、私に欲しいものを取る自由を与えたら、他の人のものを持つ自由がなくなる。私に暴力する自由を与えたら、他の人には怪我が発生する。このような行為を許すべきではないと思うのは当然だ。詳細にはかなりの検討は必要だが、ここで別な問題と取り組みたいので、二つの原則を提唱する。一つは、他の人の自由を縛る行動を抑制してもいい規則だ。もう一つは、自分の行動の費用や損害を無理矢理他人に課すことも許すべきではない。この二つで窃盗や暴力を禁じる根拠が出ると思うが、ここで詳しく説明しない。

ここで考えたいのは、周りの人に嫌な思いをさせる行動だ。結論から始まったら、このような行動を許すべきだと思う。いや、許さないと本当の自由を保っていないと思う。

理由を一つ挙げよう。宗教者の間に、別の宗教の教徒を見たら、嫌に思う人は少なくない。しかし、これで宗教を禁じるか、宗教的な行動をこっそりする義務を課すかは自由ではない。また、働いている女性を見ると、それとも自分の上司に黒人がいると嫌な思いを抱える人も少なくない。これを根拠として女性の働きを禁止したり、黒人の出世を禁止したりするわけにはいかない。

簡単な反応は、「いいことを許して、悪いことを禁じるべきだ」ということだが、自由を重視すれば、この答えはない。働く女性を嫌に思う人の苦しみが自由の束縛の理由にならなければ、働く女性が嫌に思う行動を禁ずる根拠もない。極端な例で強く言えば、軽蔑されない権利はない。揶揄されない権利はない。そして、自分の一番大事にする模範に違反して軽蔑する行動に晒されない権利もない。

軽蔑が脅迫に及べば、自由を束縛するので、抑制するべきだ。実際のケースで、軽蔑か脅迫かを決めることは簡単ではない場合も少なくないと思う。それに、いい人になるために、思いやりは必要だから、周りの人を嫌がらせないように行動するべきだ。相手の立場に強く反対しても、嫌がらせないほうがいい。しかし、これはマナーだ。マナーは権利や法律の範囲に入っていない。

だから、単に嫌であるから何かを抑制することは許すべきではない。反論してもいい。反論しなければならない場合もあるだろう。しかし、禁制を求める訳にはいかない。


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