教育の基本

私は毎週『神社新報』を読むのは、このブログを読んでくれる方にはご存知の通りだ。私の社会的な立場は保守的ではないと思うので、議論したくなる内容は少なくないが、強く反発する内容は珍しい。だからこそいい刺激になる。私の立場と異なるご意見を冷静に考えて、自分の意見を修正する場合もあるが、磨くことは多い。

しかし、今週の2月25日付けの部は例外だ。似ている内容の二つの記事に強く反発した。

教育についての記事で、一つが白虎隊を例として挙げて、会津藩の教育方針を讃えて、今日の自由を中心とする教育を強く批判する。もう一つは、大阪の事件を挙げて、体罰と暴力を区別して、体罰の必要性を訴える。

私の立場は言い易い。

少年の自殺を産む教育、ましてや少年の集団自殺を産む教育は悪質な教育に他ならない。

教育は、親や先生の宿命である。しかし、子供を授かれば、権利を授からず、義務を受ける。同様、弟子を受け入れたら、権利ではなく、義務を増やす。親は子のために動くし、先生が弟子のために仕える。これは、親として、そして先生としての堅持する意見なのである。

こうであれば、親や先生には鞭を握る資格はあるものか。子供や弟子の意思を縛る資格はあるものか。罰を与える立場ではない。子供が言うことを聞かないとしても、それはなぜ問題になるのか。親が言うからと言って、拘束力があるとは言えない。もちろん、幼い子供の場合は特に安全などに関わることは多いので、抱きしめて行動を抑える必要さえあるが、怒る理由にならない。子供が自分の人生を損なう方向へ向けても、怒らず心の中で嘆きながら取り戻すように尽力するしかない。子供を気ままにさせるわけにはいかないが、子供が逆らったら誘致が足りなかった証拠だ。子供が悪いことをしたとは限らない。

子育ては難しい。子供が親の迷惑になることは多いし、弟子が先生の迷惑にもなるが、それも先生の宿命だ。迷惑を受け入れて弟子のために行動する。子供が正しい道を自分の目で見ない限り、教育は成功に至っていない。弟子が自分の理解でできない限り、学習は未完成だ。親や先生を恐れるから動いても、静まっても、意味はない。自分の意志から動いたり静まったりするのは目標だ。

先生が弟子に、親が子に、奉侍する。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: