先日、不思議なことに私が無理な乗車をして、ドアに挟まれた。不思議である理由は複数ある。まず、初めてだった。そして、方針として無理な乗車は避ける。走らない。それに、当時急がなかった。さらに、「ドアが閉まります」とのアナウンスもちゃんと聞いた。しかし、なぜか行動とつながらなかった。二度としたくない、振り返れば再発防止策が思いつかない。問題は、方針等が失敗したことだ。方針や対策で、方針や対策の失敗を防ぐことは当然難しい。20年前に似ている経験もある。学生の時代、レッスンをさっぱり忘れた。覚える条件は揃っていたが、全て失敗した。それは一回だけだったので、無理な乗車も一回でとどまるように期待する。
しかし、より大局的に考えれば、これは重要な事実だ。人間は、失敗する。今に対策を整えても、失敗する場合がある。その失敗は、失敗する人の責任だ。(レッスンを欠席したときに、何回も謝った。)それでも、制度や設備を構造する人には、この事実が知っているはずだ。要するに、設備を設計するときに、人間が失敗することに配慮するべきだ。JRの電車はそうだ。挟まれても怪我はないし、電車が10秒遅れて出発した。だから、一瞬の失敗の結果を最低限に抑えた。
原発の場合も同じだ。一つの失敗で事故が発生しないような設定は必要だ。最近の設備の設計で、この点が常識になったような気がする。失敗しないように訓練するのは当然だし、そして失敗しないように人が努力するのも当然だが、失敗があるのも避けられない事実だから、人間の失敗があっても結果が深刻ではないように考えなければならない。設計のときの失敗もあり得るので、設計のチェックなどは必要不可欠だが、時間があれば人間のうっかりミスを避けることは殆どできる。(他の失敗の種類もあるので、時間があっても設計は完璧になるわけはない。)
そして、何を設計するによって、事情が違う。例えば、私がゲームを作成すれば、失敗しても楽しくないゲームを出版するにすぎない。よくないが、人への影響は少ない。それに、読者は自分で失敗を直すこともできる場合がある。要するに、最悪の場合は深刻ではない。それでも、失敗をなるべく避ける方針をとるし、私が一時失敗しても出版するまえに気づかれるようなプロセスがある。原発の場合、最後までミスが残ってはいけない。
完璧な人間のためな制度を整えれば、避けられない失敗は整備した人の責任でもある。直接に失敗した人も責任の一部を負うが、失敗の結果を大きくしてしまった人も責任を免れない。JRの設備はこの場合よかったので、責任の全てが私を負う。幸い、JRの設備のおかげで、重い責任ではない。しかし、繰り返してしたくないよね。