研究と自由

国家の政府の役割は自由を保障したり拡大したりすることにしたら、前に触れたようにインフラや医療の提供は必要だ。ただし、それにとどまらない。

このブログを書いたら、世界中の人に私の意見を発信できる。それを可能にする要素を大別したら、二つだ。一つは形式的な自由だ。日本では言論の自由が保障されているので、日本の政府を批判しても問題にならない。これは重要な要素だ。法律に規制された行為は、自由にとれない。

もう一つは、インターネットの存在だ。たった25年前には、このことはできなかった。法律は変わっていないが、可能性が拡大してきた。この拡大も、政府の役割の一部だと思う。インターネットの開発、治療法の開発、生理学のより深い理解、エネルギーの新資源、このような科学的な研究は、すぐに自由とつながる。自由を抑制するために発見を使うことも可能だが、それはまた形式的な自由の役割だ。法律で自由を保障して、技術を自由の拡大に貢献させるべきだ。

つまり、ある程度政府が科学的な研究に資金を潤うべきだ。次世代の自由の拡大をもたらすからだ。

一方、哲学などの研究は別だ。私は、哲学や美術ができるために文明が存在すると確信するが、自由の保障の一部は、政府が文明の目的を決めないことだ。だから、自由に貢献しない研究は、政府によって支えるべきではない。むしろ、民間には資源を残して、民間での研究を可能にするべきだ。

この点ではちょっとした抜け穴があると思う。教育で哲学や歴史を勉強させるべきだ。そうしないと、自由が縛れる。哲学を目的とすることはできなくなるからだ。しかし、高等教育で哲学や歴史を教えるためには、研究しなければならない。だから、教師には研究する余裕を与えないといけない。しかし、これは教師のためだから、研究の専門家を国庫の出費で設けるべきではない。

これは、結局、現状と大きく変わらないが、それは驚くほどではないだろう。日本の政府は、完全に間違った方針をとっているとは思えない。根本的な改新が望ましいとしても、現状では日本の住民の自由は厳しく縛られていないので、結果的に現状に似るのは当然だろう。ただし、研究の目的は自由を拡大することとしたら、詳細には変更は多いと思う。経済を強くすることは狙いではないので、特許などより、自由に発信された情報と自由に使える技術を伝播するべきだろう。そして、基礎物理学も、哲学と同じように文明の意義そのものであるだろうから、政府に支えるべきではないともいえよう。

これも、長期的な視野を持つことだ。今、社会の資源の一部を研究に注入すれば、自由がちょっと減る。なぜなら、その資源を自由に使えないからだ。しかし、その報いとして、次世代の自由が想像を超える。今だけではなく、将来の自由も保障するべきだ。


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