教育の平等主義

今朝のNHKラジオニュースで、安倍内閣の教育改革案が報じられた。英語の教育を重視して、TOEFLなどの一定の点数を大学への入学の条件にする方針を導入するつもりだそうだ。TOEFLは、TOEICと違って、いい試験だから、その点で賛成する。しかし、TOEFLなどというのは、IELTSも認める意味であるように望みます。なぜなら、一つの試験を基準にしたら、一つの企業へ過剰な影響力を与えるからだ。二つはまだちょっと少ないが、TOEFLとIELTSは主な試験だから、他の選択肢は見つけにくいだろう。英検の準1級と1級もいい試験だが、2級以下はちょっと実力と離れるような気がするし、1級の水準はかなり高いので、大学入学の条件にしない方がいい。

そして、もう一つのコメントが気になった。それは、「教育の平等主義から脱出して、エリートを育てる」ようなポイントだった。

ある意味で、これにも賛成する。才能がある子供の才能を導きだすべきだ。他の子の補給のために放置するのはよくない。しかし、このような方針は、人を捨てる方針になりがちだ。特に才能がある人に教育を集中して、平均を下回る人を放置する傾向がある。これもしては行けないことだ。

教育を充実にするために、費用は厖大な金額で必要になる。それは、教師の人件費だ。教師の収入は低かったら、教師に必要な才能を持つ人は教師のキャリアに行かないので、金融界ほど高くなくてもいいけれども、ある程度のちゃんとした収入にしないとだめだ。そして、教育を個人差に合わせるために、教師は沢山必要になる。技術などでちょっと抑えられると思うが、限界は明らかにある。

限られた教師や教材の場合、才能を持たない人を重視するしかないと思う。なぜなら、本やネットを提供すれば、才能を持つ人は自分で進むことはできるが、才能はない人には助けなないかぎり、何もできないからだ。だから、安倍内閣は教育へ財源を注入するつもりなら、いいと思うが、そうではなければ警鐘を鳴らすべきだろう。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: