「外国籍」と犯罪

先日、武蔵野市で強盗殺人事件があった。NHKのラジオニュースに取り上げられたが、事件の翌日のニュースには違和感を感じた。なぜなら、逮捕された少年を「外国籍の少年」と言ったからだ。

これは、事件と関係ないことだ。逃亡中であれば、話は変わる。外見が日本人と異なる容疑者であれば、探すために広く報道してもよいだろう。写真を配ると基本的に変わらない。でも、その場合でも、国籍ではなく、外見は重要だ。それに、今回、もう逮捕された。(すぐに逮捕された理由は、目立ったからだったろう。)

二日目、「ルーマニア国籍」と改めた。NHKの中で「そのままだと、「外国籍イコール犯罪者」の印象を与えるのでは」との認識があったのだろう。だから、初日の報道は、ただ当時に得れた情報に基づいて、そして、より詳しい情報が入手できたら、改めたのような印象にするためだろう。

そして、三日目には、もう一人の事件に関わった少年は「日本国籍の少年」として指摘された。

もちろん、普段容疑者は日本国籍を持つことは指摘しない。遠隔操作ウィルス事件の容疑者は、日本国籍を持っていると推測できるが、一回も言及していない。

推測すれば、NHKの誰かが「外国籍」と言ったことには問題があったことに気づいたと思う。そして、国籍を単純に無視すれば、最初の報道の印象が残るので、解決策にならないことにも気づいた。だから、もう一人の容疑者を明確に「日本国籍」と指摘したのではないかと思う。そうであれば、結果としてはよいと思う。これからこのようなことに気をつけると思えるし、今回の事件は「外国人犯罪者」の事件ではないことも明らかにできた。

(ちなみに、NHKのラジオニュースを毎日聞いたら、決まり文句に気づく。問題にならない言い方が決まったら、ずっと使う。欧米では、そうではない。表現を毎回変える。コミュニケーションの側面から考えたら、NHKの方法がより効果的だと思う。紛らわしくないし、表現が変わったら、変化自体には情報が秘める。)

初卯祭

鳥居の上部に付けられた藁の蛇の顔
今年の大蛇
今日、白幡八幡大神の初卯祭にお参りしてきた。

この祭りは、神社に属する八幡講が執り行う祭事で、稚児の二人が白い着物と袴で主役を担う。今年も稚児の一人は男の子で、もう一人は女の子だったが、それで三年連続になったと思う。稚児の保護者や祖父が青い裃を着て付き添いになるので、稚児が玉串を奉奠することになったら、手伝った。神事は長くないので、5歳ぐらいの稚児も我慢できた。

祭祀のための弓矢拝殿で神事が執り行われてから、境内で弓矢での行事がある。去年以前詳しく描写したので、今年の気になる点しか書かない。最初に写真に見える祭祀用の弓矢での行事がある。講代表等が地面に向けて矢を放つ行事は前と同じだったが、それから、通常通り稚児の保護者が稚児と一緒に矢を放つことになった。

矢が的に向かって飛ぶ昨年、これは形の過ぎなかったような気がするが、今年「当たるまで続かなければならない」と言われ、弓矢も前よりしっかりできたようだ。的に当たるのは可能だったので、ちょっと頑張って、当たった。これで豊作になるそうだ。確かにこの神事はもともと豊作か凶作か占うための神事だったそうだから、矢が当たらないとちょっと大変だ。的をわざと放つところに近く設けたが、弓矢をしっかり作らないとだめだろう。

今年、私が矢を放たなかったが、講の一員ではないし。風はちょっと強かったが、気温は寒くなかったので楽しい見学ができた。この神事が長く続くといい。

教育の基本

私は毎週『神社新報』を読むのは、このブログを読んでくれる方にはご存知の通りだ。私の社会的な立場は保守的ではないと思うので、議論したくなる内容は少なくないが、強く反発する内容は珍しい。だからこそいい刺激になる。私の立場と異なるご意見を冷静に考えて、自分の意見を修正する場合もあるが、磨くことは多い。

しかし、今週の2月25日付けの部は例外だ。似ている内容の二つの記事に強く反発した。

教育についての記事で、一つが白虎隊を例として挙げて、会津藩の教育方針を讃えて、今日の自由を中心とする教育を強く批判する。もう一つは、大阪の事件を挙げて、体罰と暴力を区別して、体罰の必要性を訴える。

私の立場は言い易い。

少年の自殺を産む教育、ましてや少年の集団自殺を産む教育は悪質な教育に他ならない。

教育は、親や先生の宿命である。しかし、子供を授かれば、権利を授からず、義務を受ける。同様、弟子を受け入れたら、権利ではなく、義務を増やす。親は子のために動くし、先生が弟子のために仕える。これは、親として、そして先生としての堅持する意見なのである。

こうであれば、親や先生には鞭を握る資格はあるものか。子供や弟子の意思を縛る資格はあるものか。罰を与える立場ではない。子供が言うことを聞かないとしても、それはなぜ問題になるのか。親が言うからと言って、拘束力があるとは言えない。もちろん、幼い子供の場合は特に安全などに関わることは多いので、抱きしめて行動を抑える必要さえあるが、怒る理由にならない。子供が自分の人生を損なう方向へ向けても、怒らず心の中で嘆きながら取り戻すように尽力するしかない。子供を気ままにさせるわけにはいかないが、子供が逆らったら誘致が足りなかった証拠だ。子供が悪いことをしたとは限らない。

子育ては難しい。子供が親の迷惑になることは多いし、弟子が先生の迷惑にもなるが、それも先生の宿命だ。迷惑を受け入れて弟子のために行動する。子供が正しい道を自分の目で見ない限り、教育は成功に至っていない。弟子が自分の理解でできない限り、学習は未完成だ。親や先生を恐れるから動いても、静まっても、意味はない。自分の意志から動いたり静まったりするのは目標だ。

先生が弟子に、親が子に、奉侍する。