先日、住民の実質的な自由を増すために、国家が科学研究を支援するべきであると述べた。可能性を広げる目的は、科学の多くの分野を覆うが、全てではない。粒子物理学や天文学、古生物学などは、現代人の可能性を広げることとの関係は薄い。全くないとは言えないが、国家の限られた財源をより直接に関わる分野に使うべきだろう。だから、国家がこのような研究の研究費を賄うべきではない。
だから、このような研究は悪いかと言えば、そうではない。むしろ、このような研究ができるように文明が存在すると私は思う。しかし、国家の行政が文明の目的を決めるべきではない。なぜなら、目的を決めたら、当然住民の自由を制限するからだ。だから、禁じるわけにはいかないのは言うまでもないし、促進してもよい。ただし、財源を使うべきではない。
では、資金はどこから集めるのか。住民から。資金を募集したらよい。大規模な研究施設には、一年に一千億円が必要だとすれば、千万人から一万円ずつ集めればよい。それは無理だと思われるだろうが、本当に無理であれば、何の根拠で国家の強制する権力を使うだろう。古生物学などには、数千万円の研究費でできるので、数万人の支援が必要となる。
もちろん、このような制度を明日導入することはできない。一般人が適切な研究プロジェクトを選んで、安心して投資できる制度を設けなければならない。この制度は、住民の実質的な自由を増すので、国家が関わってもよい。具体的に言えば、素人を最先端の科学研究と関わることも、方向に影響を与えることも可能とする。もちろん、制度が存在すれば、すぐに住民の生活と関わる研究も参加できる。純粋な研究には資金が流れないように恐れる人もいるだろうが、住民は支えたくなかったら、そのことはできない。研究者が勝手に社会から支援を得ることを決めるわけはない。
そして、この制度があれば、住民が研究とより親しく結びつくと思える。これも評価できることだ。研究を一応把握すれば、社会の変容もちょっと予想できて、対応できるようになるだろう。
現在の研究制度と比べたら、大きな変化になるのは間違いないが、研究がなくなるはずもない。そして、「この研究にはなぜ資金が流れるか」という質問には、簡単に答えられる。住民の自由を支えるか、住民自身がこの研究へお金を出すことに決めたか。根拠を疑う余地はない。