言語の「正しさ」

「正しい」言語が度々話題になる。4月15日の『神社新報』に載ったコラムで、現代仮名遣いは「正しさ」を捨てて、「便利さ」を求めることの証だと述べる。このような言い方は、言語の根本的な誤解を表す。

言語は、コミュニケーションのための道具に過ぎない。詩も変わらない。詩で伝える内容は単純な情報を遥かに超えるが、詩での言葉遣いは、その伝えたい内容を伝えるように使われる。それを考えれば、正しい言語は、意味を伝える言語だ。つまり、相手に意味を伝える言語だ。

現代の日本で、正しい仮名遣いは、一般に言えば、現代仮名遣いのほかならない。歴史的仮名遣いにすれば、多くの人が分からないか、分かりづらく感じる。(確かに、すぐに慣れるが、慣れるまで問題になる。)一方、『神社新報』で伝えたいことの一つは、戦前の日本の価値観に付着することだから、歴史的仮名遣いを採用して、別な話題についての記事でもこの意味を伝えられる。だから、『神社新報』の仮名遣いも正しい。

ところで、戦前の公文などを読めば、送り仮名はカタカナだったが、『神社新報』で平仮名を使う。その理由は明らかにされていないが、推測できる。現代、カタカナはカタカナ語に使われるので、外来語の印象を与える。『神社新報』で、そのような海外からの輸入文化を連勝させたくないので、平仮名にするだろう。

英語は、もちろん同じだ。言いたいことが伝われば、正しく使われている。ただし、「英語はそれほど上手ではない」ことも伝える場合はある。殆どの現場で、それを伝えたいと言えよう。自分の英語のレベルに合わせて話しかけてほしいからだ。でも、そういう印象を与えたくない場合もある。例えば、プレゼンをする場合、「英語の準備に注意を払わなかった」と伝えたくない場合は多い。その場合、ネイティブにチェックしたもらったほうがよいだろう。高級の英語の印象を与えるために、教養あるネイティブの英語に倣った英語で話したほうがよいだろう。そうするために、相当の努力や時間は必要だから、そのような印象は本当に必要であるかどうかを考えるべきである。

そして、もう一つの見逃しては行けないことがある。それは、言語は生き物であることだ。言語は、自然に変わる。変わらない言語はもう死んだ言語だ。人間の人生の間に劇的に変わることも少なくない。それは、現代の若者の日本語は間違っていると言う証拠ではない。日本語がこの50年で変わってきた証拠だ。それでも、いい変化も悪い変化がある。言語の使命は、意味を伝えることだから、意味を伝えにくくする変化は悪い。それにたいして、意味を伝え易くする変化はいい。いい変化の例として、ら抜き言葉を挙げよう。らを抜いたら、受動態と可能動詞が区別試薬なるので、意味がより確実に伝える。

つまり、自分が子供の頃に学んだ言語は正しいわけはない。それは、一つの使える言語に過ぎない。目的や状況によって、別な文法や言葉遣いに従うべきである。極端な例を挙げたら、日本では皆が間違った英語を話しているわけはない。


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