写真集

北川景子さんが初オリジナル写真集を刊行するそうだ。これは、デビュー10周年の祝い行事で、握手会などを開くつもりもある。そして、期間限定Facebookもその行事の一環だそうだ。ファンとの交流を増やしたいとのコメントも寄せた。

オリジナル写真集というのは、きっと「北川景子」としての写真集を指しているだろう。前に出版された写真集は映画関連で、映画で演じるキャラクターのイメージに沿った写真だ。2006年に確かに『ハリウッドへ行っちゃった』と言う本を刊行したし、写真が沢山載っているが、それは写真集に見なされていないようだ。(ところで、「写真集」の定義は何だろう。

ファンだから、楽しみにするのは当然だが、なぜ楽しみにするかというと、北川さんの自己表現が見えるからだ。そうではない限り、興味は特にない。だって、他人を表現する写真や動画は溢れるほどある。最近、女優として大活躍だから、彩未先生を表現する写真や動画などは山ほどある。その追加の写真は、もちろんいいけれども、特別ではない。一方、自己表現の奇麗な写真は少ない。

ここで自然な質問が出てくるだろう。俳優の自己表現にはなぜ興味を持つか、と。所詮、俳優は別人を演じる職業だし、それに北川さんを知っているわけではない。演技のみで十分なのではないかと聞かれるだろう。他の役者の場合、それはそうかもしれない。人間として、ただ普通の人間で、特に興味を持たなくていい。しかし、私にとって北川さんの魅力は、外見や演技より、ブログなどで披露した考え方や直感や感情だ。ブログはなかったら、興味がもう数年前になくなっただろう。つまり、今までの北川さんの自己表現には魅力を感じたので、それは写真集にさらに披露されたら、楽しみにするのは当然だ。北川さん自身が撮影現場としてパリを選んだそうだから、期待できるだろう。ベルサイユのバラ園で撮影しただろう。

ただし、正直に言えば、写真集より随筆集のほうが、私にとって楽しみになる。考え方がよりはっきり示されるからだね。ただし、随筆集の支度には相当の時間がかかるし、需要は少ないだろう。

ところで、Facebookはまだ3300「いいね」弱だ。なんでだろう。

分析

仕事で、今先ほど得た検定試験の結果を分析している。この分析に基づいて、検定を磨くし、論理教育のあるべき形も明かす。分析はまだ途中だが、うまくいっているようだ。

まずは、私の理論は完全には間違っていないようだ。平均的に、簡単な設問の正解率が中ぐらいの設問の正解率を上回るし、難しい設問の正解率は一番ひくい。そして、多くの場合、私の予想した間違った答えを選んだ受験生は多い。理論を磨いたらいいようだ。

そして、新しい情報を得た。設問の形式に問題が見えるようになったので、解決方法を考える。そして、ちょっと不思議な間違いもある。ただの偶然であるだろうが、このような結果をまとめて、これからの試験での結果も見守る。

研究の計画の第一歩に過ぎないが、ちゃんとした成果があるようだ。よかった。

北川景子さんの公式Facebook

一昨日、北川景子さんが公式なFacebookを開いた。本人である証拠は、公式ブログでStaffが公表したことだ。(だから、ブログで指摘されていないFacebookは偽物であるのは明らかだよね。個人のページがあるかもしれないが、仮にあれば秘密に設定しているはずだ。)

このFacebookは臨時的で、デビュー10周年記念として開かれたそうだ。

ちょっと恐ろしい。北川さんのデビューは私が来日した直後だったので、私はもう日本にいて10年になったという意味だ。そのころより北川さんのキャリアはもちろん輝いてきたが、演技ももちろんさらに上手になった。そして、真由喜もファンになってきた。先日、北川さんが首相の桜を見る会に出たことを話したら、真由喜は「いつか北川景子と会いたいな」と言い出した。保護者として同伴できる限り、私も賛成だ。

もちろん、ページをLikeしたが、その時点はただ50だった。公表されたばかりだったはず。いつ一万を超えるかな。

言語の「正しさ」

「正しい」言語が度々話題になる。4月15日の『神社新報』に載ったコラムで、現代仮名遣いは「正しさ」を捨てて、「便利さ」を求めることの証だと述べる。このような言い方は、言語の根本的な誤解を表す。

言語は、コミュニケーションのための道具に過ぎない。詩も変わらない。詩で伝える内容は単純な情報を遥かに超えるが、詩での言葉遣いは、その伝えたい内容を伝えるように使われる。それを考えれば、正しい言語は、意味を伝える言語だ。つまり、相手に意味を伝える言語だ。

現代の日本で、正しい仮名遣いは、一般に言えば、現代仮名遣いのほかならない。歴史的仮名遣いにすれば、多くの人が分からないか、分かりづらく感じる。(確かに、すぐに慣れるが、慣れるまで問題になる。)一方、『神社新報』で伝えたいことの一つは、戦前の日本の価値観に付着することだから、歴史的仮名遣いを採用して、別な話題についての記事でもこの意味を伝えられる。だから、『神社新報』の仮名遣いも正しい。

ところで、戦前の公文などを読めば、送り仮名はカタカナだったが、『神社新報』で平仮名を使う。その理由は明らかにされていないが、推測できる。現代、カタカナはカタカナ語に使われるので、外来語の印象を与える。『神社新報』で、そのような海外からの輸入文化を連勝させたくないので、平仮名にするだろう。

英語は、もちろん同じだ。言いたいことが伝われば、正しく使われている。ただし、「英語はそれほど上手ではない」ことも伝える場合はある。殆どの現場で、それを伝えたいと言えよう。自分の英語のレベルに合わせて話しかけてほしいからだ。でも、そういう印象を与えたくない場合もある。例えば、プレゼンをする場合、「英語の準備に注意を払わなかった」と伝えたくない場合は多い。その場合、ネイティブにチェックしたもらったほうがよいだろう。高級の英語の印象を与えるために、教養あるネイティブの英語に倣った英語で話したほうがよいだろう。そうするために、相当の努力や時間は必要だから、そのような印象は本当に必要であるかどうかを考えるべきである。

そして、もう一つの見逃しては行けないことがある。それは、言語は生き物であることだ。言語は、自然に変わる。変わらない言語はもう死んだ言語だ。人間の人生の間に劇的に変わることも少なくない。それは、現代の若者の日本語は間違っていると言う証拠ではない。日本語がこの50年で変わってきた証拠だ。それでも、いい変化も悪い変化がある。言語の使命は、意味を伝えることだから、意味を伝えにくくする変化は悪い。それにたいして、意味を伝え易くする変化はいい。いい変化の例として、ら抜き言葉を挙げよう。らを抜いたら、受動態と可能動詞が区別試薬なるので、意味がより確実に伝える。

つまり、自分が子供の頃に学んだ言語は正しいわけはない。それは、一つの使える言語に過ぎない。目的や状況によって、別な文法や言葉遣いに従うべきである。極端な例を挙げたら、日本では皆が間違った英語を話しているわけはない。