哲学で、倫理的な運の概念がある。英語で「moral luck」と言う。例で分かり易い。
太郎は、川で溺れかけている子供を見つける。三人は水で死にそうだが、二人は一緒に泳いでいたが、もう一人は離れた場所にいる。太郎には、二人か一人か救える。救ってから別な場所へ向かっても、あそこの子供はもう死んでいるはずだ。他の人は間に合えない。その上、一人で泳いでいる子供は、太郎の息子だ。誰を救うべきだろう。自分の息子を死なせるのは悪徳だし、二人より自分と関係ある一人を救うのも悪徳だ。善なことはできない。
次郎も、川で似ている状態を見る。しかし、次郎の場合、三人は同じ場所にいるので、皆を救うことはできる。
次郎の倫理的な運は良い。太郎の倫理的な運は悪い。
私の立場から見れば、現在の世界に生きている人は皆、運が悪いようだ。自分と絆がある人を養うために、貧困に苦しむ人を見捨てなければならないからだ。家族を放置するわけにはいかないが、餓死する人を救わないことも許されない。この問題を解決するために、世界的な構造を改善するしかない。しかし、それは一人の市民には無理だし、それに貢献する運動も、他の義務の妨げになる。この側面から見ても、良いことはできない。
皮肉なことに、昔にはこの問題はなかったかもしれない。非常に苦しむ人の存在を知らなかったし、知ることもできなかったし、仮に知っていたとしても、何もできなかった。しかし、現代はそうではない。知っているし、何かできる。
だから、完璧な、いや、大きな欠陥はない倫理的な生活は到底無理だ。