いじめ

いじめは、学校の問題としてよく知られている。ただし、学校だけではなく、職場でもあるし、趣味の組織でもある。人間が集まれば、いじめが問題になりがちのようだ。いじめには、様々な種類がある。極端の場合、暴力にも及ぶし、猥褻行為も含む。その場合、被害者はなぜ苦しむかは分かり易い。

しかし、多くの場合それほどの問題はない。ただ親しい関係はないひとが被害者に批判や悪口を出す。これで、精神的な負担や負傷は多いのは否めない事実だが、なぜそうなるかは不明だろう。その人はどう考えてもいいのではないか。なぜ、無関係の人の意見が気になって、自殺まで追い込むのだろう。インターネット上のいじめはさらにそうだ。全く知らない人で、本名さえ知らず、本気で書き込んでいるかどうかも知らなくても、精神的な負担は重い。これは、自分で体験した。しかし、どこかの誰かが自分の行動を評価しないことは、そういう風に言ったらごく当たり前だ。しかし、苦しめば、そういっても癒されない。

私は、仮説を持っている。人間は、社会を結成する生き物だ。人間が孤立されたら、この世に生き残るのは大変だ。特に、大昔の石器時代には、孤立された人間は、他の動物に食べられたり、餓死したり、事故に会って一人で死んだりした。一人の人間にとっては、仲間は必要不可欠な存在だ。だから、孤立させられる恐れがある状況を恐れるのは進化によって付けられた精神だろう。そのような行為に触れたら、まずいじめる相手のご機嫌取りを図って、ご機嫌伺いを重視することは対策だ。それが効かないと、ストレスが増して、他の手法を探さなければならない。解決できなければ、死ぬ恐れさえあるからだ。

しかし、この精神は、現代社会に向いていない。接する人間の人数は、生き残るに必要な仲間の人数より遥かに多いし、ある人に除外されても、仲間を見つけることはできる。だから、客観的に見たら、もういじめに気にする必要はない。それでも、心理がそう簡単に変わらない。自分で相手が悪いのは分かっても、気持ちは癒されない。周りの人に「気にしないで。なんであのような人が気になるの?」と言われても、効果はない。(いじめを強化するよりもちろんいいけれども、解決にならない。)だから、環境を逃げて、別の仲間と絆を結ぶか、加害者の行動を変えてもらうしかないだろう。いじめの打撃を和らぐために、誰にも仲間の輪があるような環境づくりに励むべきだろう。孤立させられる恐れは全く感じない場合、いじめの被害が軽くなるのだろう。


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