味方との相違

人間同士で、二人が完全に同意することはないだろう。趣味が違うとか、大好物の食べ物が違う等の相違点は常時の存在だ。日常的な人間関係では、この事実が問題にならない。しかし、論争に入ると、問題視されてくる。

論争でも、見方の大好物の食べ物が問題になることは少ない。しかし、論争の内容についての相違点が厳しく問題視される。例えば、男女平等の論争がある。確かに日本で男尊女卑を訴える人は少ないが、男性と女性が完全に平等に行動しているとは言えない。適切な対策についての議論がある。一つの立場は、あらゆる職業には女性採用の最低基準を設けるべきという。もう一つは、このような基準を設ければ、むしろ女性の平等の妨げになると強調する。さらにもう一つの立場は、女性の平等を促進するのを認めながら、男性には不公平だからすべきではないと主張する人もいる。

前者の二人は、社会で積極的な政策を導入して女性の平等を促進するべきである点で合意するが、具体的な実現手法について分かれている。後者は、積極的な政策の導入に反対する。この場合、二人が味方になって後者と戦えるだろう。

しかし、よくある現象は、三つの陣に分かれて、お互いに戦うことである。方針を導入するかどうか、そして基本方針について同意しないと、味方として認められない。

私は、このことを慎重に考えるべきだと思う。原則として、味方を増やした方がいいのではないか。つまり、ある人がある点で自分と合意すれば、その点で味方にすればよい。別な点で意義すれば、その点で議論すれば良いだろう。実は、これは政治でよく見られることだ。選挙に勝つために、政治家が広い連携を図る。その連携のなかで、意見が分かれる人は少なくない。自民党は典型例になるだろう。政策について、自民党議員が皆本音で賛成できる方針は一つもないと言われる。しかし、共同できる範囲は十分あるので、一つの政党として動く。

この点で政治家はよく批判される。より純粋な立場を保つべきだと言われる。自分の信念であれば、私もそう思う。ぶれずに貫いた方が良い。(確かに、新しい事実を知っていれば、意見を変えるべきだが。)しかし、この世の中で味方を作るのは敵を作るより良い行動なのではないだろうか。だから、共通点を探してその共通点に基づいて味方宣言したほうがよい。相違点はあると認めながら、共通点について協力する。

これも、程度の問題だ。極端の例で、自分の国民を拷問したり虐殺したり独裁者と一緒にオリンピックの開催を図らないほうがよいだろう。しかし、独裁者で国内の政治状況は自由とは全く言えない場合でも、マラリアの撲滅の為に協力するべきなのではないか。まさに、一応民主主義の国で大統領が新聞等の自由を必要以上制限するとの判断を理由に、国際犯罪の防止のために協力しないわけには行かないだろう。

個人レベルで同じだ。一つの相違点を理由に敵とすることは多く見えるような気がする。むしろ、原則として、一つの共通点で味方にするべきだ。絆は多ければ多いほど良いと私は思う。