神社検定弐級

今神社検定弐級を受けた。

参級より難しかった。一つの理由は、参級の内容も対象になったことで、知識の量が多くなったことだが、より細かい質問もあったように感じた。

とにかく、合格したと思うが、今回90点以上とらないのはほぼ確実。私が暗記しない細かい数字の質問で、選択肢を二つ排除できたが、一つには絞れなかったケースが目立った。

今回も検定として良いと思った。実は、前回のように相応しくないと感じた設問はなかった。分からなかった場合でも、このレベルで知ったら良いと思った。

結果は七月下旬。

ところで、アンケートもあった。何の特典が欲しいとか。空欄にした。特典のために受験するわけはないし。ただし、次回も受験する予定と書いた。

今回合格する限り。

差別の三種

神社本庁協賛員特別祈願祭の経験や昨日のヘートスピーチの話題を踏まえて、差別についてまた考えた。大別したら三種類があるのではないかと今思っている。

一つは、私が祈願祭で体験したことだ。少数派になる場合、特に外見で目立つ場合、本人が緊張するし、周りからの扱いがちょっと変わる。これは確かに本人にとって楽ではないが、よく考えると避けられないことだろうと思う。目立つ人は目立つ。周りの人に気づかないように促しても、気づくかどうかは決められることではないので、効果は期待できない。そして、周りの人が仮に気づかなくても、本人はまだ自分の目立ちを気にすることは多い。その場合、周りの人には何もできない。これを払拭するために、ただ目立つ状態を当たり前にするしかない。そうなるように努力したほうがいい場合もある。例えば、女性の政治家はそうだい、女性の警官も、そして先日の経験を踏まえて、女子神職もそうだ。日本で、外国人に見える人はそもそも超少数派だから、目立たせないことはできないかと思う。(大規模な移民では可能だろうが、この問題を解決するために社会にそれほど大きな影響を与える変化を勧めるわけにはいかない。他の相当な理由で必要となれば、この問題も自然に解決される。)

この差別は大きな問題ではないと思う。誰でも、人生にはちょっと辛いことがある。目立つぐらいはその程度だろう。この状況で少数派の存在を忘れて、思わず生活を困難にしてしまうのは問題だが、差別の問題だと本当に言えるか分からない。名称はなんであれ、解決するべきだ。もちろん、対策の費用や影響にも配慮するべきだ。ある人には何かができないことはあるので、絶滅できるはずはない。可能な限りなくしても良い。

もう一つの差別は、「差別」と言えば思い浮かぶだろう態度だ。それは、ある人種や性別に対して軽蔑な態度や嫌な思いを持つことだ。「外国人は臭いし、一緒に働きたくない」という日本人は、このような差別を表している。

このような差別を表現する人を批判するべきだと思う。人種や性別によって多くの人を一斉見捨てるのは良くないし、そのような人に精神的な傷を与えるので、表現するべきではない。ただし、根本的に見れば好き嫌いだ。「外国人と働きたくない」は、「オフィスで働きたくない」と本質上異ならない。「銀行は社会に悪影響を与える悪役の企業だから、働きたくない」というのは、「外国人は臭くて几帳面ではないので、一緒に働きたくない」と同じだ。礼儀作法として表現を控えるべきだと言えるし、持ち主として生活に損を齎す態度でもあると言えるが、自由の範囲に入るのではないか。誰も私のことが好きになるはずはないが、その理由は私が外国人であることか、政治的な意見に反対することか、人はそれぞれだ。

この差別は確かに問題だ。このような差別はない社会のほうが余程良い。原則として、他の人を嫌わない社会は理想的だが、その一環としてこのような差別もないと良い。しかし、これは理想の話だし、好みの自由は大変重要な自由だから、このような差別に対して法的な措置をとらない方が良いのではないかと思ってきた。ヘートスピーチはこの表現だから、これも同じだ。

最後の差別は、制度でその人に制限や重荷を課すことだ。例えば、女性には旦那の許可なしに外出できないとか、外国人には消防士になれないなど。法律や規制からの被害はもちろん、事実上の社会の法制上の制限や被害もこのような差別だ。

このような差別は社会的な問題で、払拭するように努力するべきだ。しかし、人の感情と全く無関係だ。「外国人は大好きだから、問題ない」とは言えない。制度が障害になれば、気持ちはどうであれ、問題だ。一方、人の感情と無関係だから、個人を批判することもできない。個人が制度を築くはずはない。

例えば、日本で外国出身の人が政治家になれないとしよう。(実は、そうではない。)その理由は日本人の過半数は外国人嫌いで、投票しないなら、その広がった嫌いは問題だが、一人の日本人の個人的な嫌いは問題ではない。この場合、解決策は難しいし、時間がかかるが、目指して努力するべきだ。実は、昭和30年代そうだったかもしれないが、時間が経って、もうそうではなくなった。

この差別の原因の一つは、法律などだから、差別的な法律を撤廃するべきだ。それは簡単だ。(撤廃は容易ではない場合もあるが、何をするべきかは簡単な問題だ。)一方、社会の構成から発生する差別の解決策は探りにくいし、実現するのは大変難しい。ここで、感情的な差別に反対するメリットの一つがある。そのような態度が少なくすれば、このような問題が自然に減ると思えるからだ。そして、社会には基本的にこのような差別は一切なければ、人には個人的な偏見があっても、人の生活の問題にはならない。

だから、差別対策で、制度的な差別に集中するべきだと今思っている。