私の哲学の基本は、人は自由に行動できるべきであることだ。住まいをある国から別の国へ移動するのは行動の一つだから、原則として自由にさせるべきだと思う。実は、ヨーロッパ連合の中で自由にさせられているが、大きな問題を起こしていないようだ。しかし、世界の規模では、問題になると思っても妥当であろう。国の間に格差は激しいので、貧困な国から豊富な国へ大量な人が流れると思ってもいい。実は、日本の過疎地の問題は、国内規模だが、この問題だ。日本で都会でも山村でも問題を起こすが、言語も文化も違ったら、問題がさらに深刻になると思える。
だから、移民について慎重に考えるべきだ。私も移民したので、原則として可能にするべきだと思うのは驚くほどではないだろう。しかし、条件を設けるのも必要なのではないかと思う。
この条件は、現実的であることは重要だ。つまり、条件を満たすことを目標として立てたら、努力で達成できる条件が良い。例えば、言語能力がある基準を超えることとか、文化の理解度がある基準を超えることとか、国内の絆があることなどは適切な基準になる。犯罪歴はないことも当然な条件だ。これで重要であることは、この基準は客観的で明らかに満たすことはできる原則だ。例えば、言語能力を検定試験で測定して得点が基準を超えたら認める形が良い。入国管理局の職員が面接で言語能力を評価するのは良くない。職員の判断で、条件を満たさない人には在留資格を与えることを許すべきだが、逆に基準を満たした人には在留資格を拒否したり剥奪したりする権利を与えるべきではない。事情によって、人に希望を許すのは良いことだが、基準を満たしても入国させるべきではない人が存在すれば、基準を変えるべきだ。
もちろん、短期滞在と永住の基準を別に設けるべきだろう。そして、永住の条件の一つに数年間の滞在を設けても問題はない。それに、絆をつながることは、国外からするのは困難だから、それも短期滞在の成果になる。
最後に、入国する人数を直接に制限するべきではない。それより条件の厳しさで制御するべきだと思う。条件が高ければ、移民が国の文化や富みに貢献するし、その観点から考えれば多ければ多くほど良いので、条件の調整で移民の人数を多くするのは妥当な目的だと思う。しかし、その反面で国の人口の減少を目指すべきだと思うので、この矛盾を解くのは政治家の使命のひとつ。