お白石の奉曵

ゆり子の話を聞くと、日本人でも知らない人は意外に多いそうだから、今日の話を基礎から始まる。

三重県の伊勢市に鎮座する神宮{じんぐう}がある。神宮には合計125神社があるが、一番重要なのは二つの正宮{しょうぐう}だ。正宮の通称は内宮{ないくう}外宮{げくう}だが、正式に皇大神宮{こうたいじんぐう}豊受大神宮{とようけだいじんぐう}と呼ばれる。皇大神宮の御祭神は天照大神{あまてらすおおみかみ}で、豊受大神宮は豊受大神{とようけおおかみ}である。天照大神は、太陽に例えられる皇室の祖神だから、千年以上前から重要な神社で、そして明治維新で日本の一番重要な神社として位置づけられた。今でも、神社本庁{じんじゃほんちょう}の「本宗{ほんそう}」として仰がれ、普通の神社から乖離され、「神宮と神社」とは普通の言い方になっている。神宮は、神社本庁の規則の対象外だが、評議員などを任命する権利もあるし、神社本庁の規則のなかに神宮を支える部分もある。

神宮では、20年に一回の式年遷宮{しきねんせんぐう}が執り行われる。これは日本一大祭祀と言われ、主な社殿や他の建物は立て替えられる。だから、神宮には歴史的な建物は非常に少ないのだ。神宮は、少なくとも1300年の歴史を持って、考古学の成果を踏まえると1500年以上だとも言えるが、古い建物は20年前に立てられた。神宮の建築の方式は、原始的だから、長持ちではない。それは一つの遷宮の理由だとされているが、遷宮には意味は重複である。

立て替えの最後の方に、「お白石持行事{おしらいしもちぎょうじ}」という行事が執り行われる。それは、正宮の神域の中に白い石を納めるために、伊勢市を車に載った白石を曵いて、そして白い布に包んで神域の中へ運ぶことだ。車を曵くことは「奉曵{ほうえい}」と言われ、今日の投稿はその部分についてにする。

私が股引や腹掛を着て、飾られた石車の前に立つお白石持行事は、少なくとも15世紀の室町時代まで遡るそうだ。大東亜戦争まで参加は伊勢の市民に限られたが、戦後全国の崇敬者にも参加する機会を与えるようになった。「特別神領民{とくべつしんりょうみん}」と言われるので、私がその資格で参加するように申し込んだ。しかし、落ちた。残念に思ったが、ゆり子がその話を幼馴染にしたら、伊勢市に住んでいる友人がいると言って、調べてくれた。この友人は、一つの地元団体の役員になって、参加を可能にしてくれた。

だから、必要な衣装を整えて、参加する準備した。伊勢市に泊まるのは無理だったので、松阪市の駅前のホテルで泊まることになった。家族で行ったが、奉曵に参加するのは私だけだった。奉曵の衣装は伝統的には真っ白だったそうだが、近年だんじり祭りや浅草三社祭の影響を受けて、股引は腹掛、そして法被の姿になっているそうだ。私が参加させていただいた団体は「宮後{みやじり}」というので、「宮後」と書いてある法被を羽織った。しかし、当日の10日は大変暑く、法被を腰に巻いてもらった。お白石は、二つの木製の車に載せられ、車は飾られた。私が午前7時の飾る段階から参加させていただいたが、それも興味深かった。

巻かれた綱この行事も、20年に一回なので、飾り方をちゃんと覚えるはずはない。だから、前回の写真を持って、飾り方を確認しながら車の整備をした。白石は、宮川から拾われるそうだが、川にはダムなどができ、今回の石探しは大変だったそうだ。次回、拾う範囲を拡大せざるを得ないだろうとの話があった。

賑やかにするために、太古や囃子{はやし}のトラックもあったので、音楽があったはずだ。しかし、私は聞こえていなかった。なぜなら、囃子のトラックが先頭に走ったが、私は綱を持って、車を曵いたからだ。車を曵く人は、数百人に上ったので、囃子から遠かった。

10日の行事は、内宮に石を運ぶだったので、天照大神が見下ろした。天を照らして、地上も照らした。つまり、すごい炎天下だった。気温が40度まで上がったそうだが、少なくとも体温を上回った。そして、この状態で5時間以上重い車を綱で曵くことになった。

熱中症対策は万全だった。お茶のペットボトルを配る人がずっと列の外を走って、飲み物を配った。塩飴も配ったので、水分と塩分に気をつけながら参加できた。道端に立った人は水を差してくれたし、医者が同伴したそうだ。その結果、ちびっ子から老人までの文字通りの老若男女の数百人が厳しい環境で参加したものの、熱中症で救急車が必要となったのは、最後の方の一人にとどまった。その方も、車椅子で最後の行事に参加できたので、大きな事故なしに無事に終われた。日焼け止めが届かなかったところにひどい日焼けになってしまったけれども。

やはり、原則として地元の人の団体だったので、参加する外国人は少なかった。それでも、周りの人と話したら、もう宮後に住まない人は多かったようだ。宮後は実家だとか、親戚が住んでいたとか、私のように友人の相対で参加できたなど、理由は多かった。一人の若い女性は、宮後に住み、前回子供として参加して、今回母親から受け継いだ鯉口を着て参加していたので、本格的に「地元」の人もいた。そして、私と話した人の過半数は、英語は上手だったか、外国に興味を持っていた。それは、やはり、そういう人が参加する白人に声を掛けるからだろう。

楽しい経験だったが、真由喜には無理だったのは明らかだ。次回は20年後だから、真由喜と一緒に参加できたらいいと思う。そのために、体力を保つように頑張らなければならない。今回、内宮に着いたら、ゆり子と真由喜と合流して、行事の次の段階に家族で参加できた。それは、明日の投稿の話題になる。


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