ゆり子の話を聞くと、日本人でも知らない人は意外に多いそうだから、今日の話を基礎から始まる。
三重県の伊勢市に鎮座する
神宮では、20年に一回の
立て替えの最後の方に、「
お白石持行事は、少なくとも15世紀の室町時代まで遡るそうだ。大東亜戦争まで参加は伊勢の市民に限られたが、戦後全国の崇敬者にも参加する機会を与えるようになった。「
だから、必要な衣装を整えて、参加する準備した。伊勢市に泊まるのは無理だったので、松阪市の駅前のホテルで泊まることになった。家族で行ったが、奉曵に参加するのは私だけだった。奉曵の衣装は伝統的には真っ白だったそうだが、近年だんじり祭りや浅草三社祭の影響を受けて、股引は腹掛、そして法被の姿になっているそうだ。私が参加させていただいた団体は「
この行事も、20年に一回なので、飾り方をちゃんと覚えるはずはない。だから、前回の写真を持って、飾り方を確認しながら車の整備をした。白石は、宮川から拾われるそうだが、川にはダムなどができ、今回の石探しは大変だったそうだ。次回、拾う範囲を拡大せざるを得ないだろうとの話があった。
賑やかにするために、太古や
10日の行事は、内宮に石を運ぶだったので、天照大神が見下ろした。天を照らして、地上も照らした。つまり、すごい炎天下だった。気温が40度まで上がったそうだが、少なくとも体温を上回った。そして、この状態で5時間以上重い車を綱で曵くことになった。
熱中症対策は万全だった。お茶のペットボトルを配る人がずっと列の外を走って、飲み物を配った。塩飴も配ったので、水分と塩分に気をつけながら参加できた。道端に立った人は水を差してくれたし、医者が同伴したそうだ。その結果、ちびっ子から老人までの文字通りの老若男女の数百人が厳しい環境で参加したものの、熱中症で救急車が必要となったのは、最後の方の一人にとどまった。その方も、車椅子で最後の行事に参加できたので、大きな事故なしに無事に終われた。日焼け止めが届かなかったところにひどい日焼けになってしまったけれども。
やはり、原則として地元の人の団体だったので、参加する外国人は少なかった。それでも、周りの人と話したら、もう宮後に住まない人は多かったようだ。宮後は実家だとか、親戚が住んでいたとか、私のように友人の相対で参加できたなど、理由は多かった。一人の若い女性は、宮後に住み、前回子供として参加して、今回母親から受け継いだ鯉口を着て参加していたので、本格的に「地元」の人もいた。そして、私と話した人の過半数は、英語は上手だったか、外国に興味を持っていた。それは、やはり、そういう人が参加する白人に声を掛けるからだろう。
楽しい経験だったが、真由喜には無理だったのは明らかだ。次回は20年後だから、真由喜と一緒に参加できたらいいと思う。そのために、体力を保つように頑張らなければならない。今回、内宮に着いたら、ゆり子と真由喜と合流して、行事の次の段階に家族で参加できた。それは、明日の投稿の話題になる。