神の破った誓い

神道の起記神話を読めば、神の命令に背くことや神が誓いを破ることはあることが分かる。二つの例を掲げる。

天孫降臨の神話で、天照大神が邇邇芸命に「この鏡を持って、自分の住居で祀りなさい。私の魂だと思いなさい」と言う。これは、いわゆる「三大神勅」の一つだ。

では、「この鏡」は、古事記や日本書紀によると何だろう?伊勢の神宮の内宮のご神体である。明記しなくても分かるが、神宮は皇居ではない。つまり、天皇はもう三大神勅の一つに背いている。これは、崇神天皇まだ遡ることだから、実在した天皇の現れの前からこの神勅は守っていない。

もう一つの例。

国譲りの神話で、タケミナカタの神がタケミカズチの神と対立して破ってから、諏訪まで逃げる。諏訪で「殺さないでください。生きさせてもらえれば、このところから出ないから。」とタケミナカタの神が誓った。それで、殺されなかった。諏訪大社は確かに今諏訪湖の湖畔で鎮座するが、諏訪神社は九州の南の部分には多い。長崎市の諏訪神社は有名だ。つまり、諏訪の神が諏訪の地区から出て、全国に鎮座することになった。誓いを破った。

この事実を踏まえて、何が言えるだろう。神社界でこのことは問題視されていないので、(伊勢の神宮を廃止して、鏡を皇居に戻す運動は存在しないというより、あり得ない)この状況で良いと言える。もちろん、神勅も誓いも神話のものだが、神話から考え方を出すことはできる。

だから、神道的な考え方として、昔に神様に誓ったとしても、事情が変わったら誓いを変えてもかまわないと言えるだろう。伝統を受け継ぐことは、過去に拘束されることと同じではないので、これを重視するべきだ。実は、前にも述べたが、神道の実践を考察すると、このような方針は一般的であることは明らかだ。神仏分離は一番目立つ実例だろうが、他の例は多い。つまり、神話から考えても、神道は事情に合わせて変わって行ける宗教であると言えよう。


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