消極的な支援者

この世には問題は多い。幸い、その問題と取組む人もいる。ただし、一生懸命問題と取組む人は、消極的に動く人を批判的に見ることは多い。特に消極的な支援者を批判することは目立つ。「消極的な支援者」というのは、問題を認めて、そして取組むべきであることも認める人だが、問題の解決に向けてあまり動かない。ネットで「この問題は大変だよね」と書いたり、ちょっとお金を寄付したりするならましだが、それより消極的な支援者もいる。活動する人の活動を評価するが、自分で何もしない。

活動家がこのような人を問題の一部と定義することはよく見える。問題は本当に見て把握すると、動くはずなのではないかという考えから、動かない人は問題の存続を黙認すると判断する。

私は、そう思わない。

まず、問題は極めて多い。積極的に取組める問題の数は当然限られている。実は、本当に解決に向けるような取り組みは、一つの問題に限るだろう。だから、ある問題に消極的な人は、他の問題に積極的である可能性もある。

そして、だれでも生活を送らなければならない。事情によって暇はない多忙ではないと食えない人もいる。そのような生活であれば、消極的な支援しか挙げられない。

上記は言い訳ではなく、理由だと思うが、確かに活動家からの容赦を求める内容だ。最後の理由は、消極的な支援者を積極的に受け入れる理由だ。

大きな変化を実現するために、社会の容認は必要だ。社会の容認は、言い換えれば、消極的な支援者が過半数を占めることと同じだ。反対する人がまだ過半数を占めたら、変化は強引に実現させても、持続性はない。関心は全くない人もいれば、ただ社会の流れに乗る。その潮流が反対方向に行けば、変化が取り消される。他方、消極的な支援者は過半数であれば、流れが変化の方向へ走る。つまり、活動家の成功には消極的な支援者は必要。

だから、消極的な支援者を歓迎して、促進するべきだと私は思う。


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