普通の仕事は、明らかに解決できる「問題」をよく理解された手段で解決する。例えば、商品を箱から棚へ移して、来客に見えるように揃えるとか、車の一部を組み立てるなど。「こうすれば良い」のがよくわかる。
工学は違う。何が解決された状態であるかが分かるし、手段の選択肢も分かるが、どうやって解決に至れるかは分からない。創造力や想像力を駆使して、試行錯誤で進む。(この定義で、社会福祉などの臨機応変が必要不可欠の仕事も工学の一種だ。教えることも。でも、普通の意味の工学も入っている。)工学は、真剣に頑張っても、失敗に終わる恐れがある。しかし、成功すれば、絶対に役に立つ。
科学はまた違う。問題の解決は何であるかは分からない。手段しかない。だから、頑張っても、問題を解決できたかどうかは曖昧であることは多い。新しい発見を目指しているので、自分の実験の結果が示唆する結果は本当の発見であるかどうかは、簡単な確認する方法はない。工学で、機械がちゃんと動いたら成功だが、科学でそれほど簡単な基準はない。だから科学で論争は多い。ただし、論争を決着するためにどうすれば良いかは、科学者に共有されている。
哲学はまたも違う。解決する手段はない問題と取組む。本当に問題が存在するかどうかさえ分からない。問題に見えるのは、ただただ人間の幻想だろうと思う場合もある。そして、解決したとしても、他の哲学者は手段も根本的に否定することは多い。「それは根拠にならない」とする。何が根拠になるかと言う必要はない。なぜなら、手段を探るとき何かには高価はないことは、効果的な手段を見つける前に分かる場合があるからだ。それに、哲学で問題の手段を見つけると、その分野はもはや哲学ではない。独立した学問になる。物理学や化学、心理学、経済学はそのように独立してきた。一番最初に独立したのは数学だろう。
難しさは比べられない。傾向としてこの順だろうが、哲学は簡単にやり始めるのに対して、数年間特訓しないとなかなかできない普通の仕事があるので、言い切れない。ただし、哲学者に「何年間働いたので、成果を見せて」とは言えない。「成果」というのは、それまでの手段は間違っていたので一歩も進化していないことに気づいたとか、手段を探ったがまだ見つけていないなどの場合は多い。哲学で、人生を「無駄」にする可能性は高い。科学でも、問題を解決できなくても後継者が基礎として築ける成果を収められる。
普通の仕事の必要性は、途中でも明らかになる。工学の必要性は、一つの仕事の成功で明らかになる。科学の必要性は、成功から数十年が経てば明らかになる。哲学の必要性は、成功から数百年か千年以上が経てば分かる。
普通の仕事は、今現実的に見える利益のため。工学は、夢で描く利益のため。科学は、夢でも描けない利益のため。哲学は、絶対にあり得ない利益のため。