文化の内外

今日、偶然に見つけたブログの投稿に考えさせられた。この投稿は、Aliette de Bodard氏という作家のブログで、異文化についての作品の注意点を列挙する。(ところで、de Bodard氏の作品はお薦めだ。英語なのだが、文化的に豊だし、話として面白い。一部は無料で読めるようだ。)

納得できる点は多い。特に、異文化について書くために、大量の勉強は必要であること。文化を把握するために、本を数冊読むのは足りない。十数冊なら、最低限になった。数十冊で、その文化で長く住めば、できるようになるかもしれない。ある文化を正しく描写するのは幻想に過ぎない。それは、文化の多様性と重層性は中心的なことで、一つの作品で完全に結晶することはできないからだ。ただし、間違った描写は存在する。現代日本には侍を描けば、それは間違いだ。よく勉強しないかぎり、そのような間違いが発生することはある。その上、欧米の作家が異文化について充分勉強せずに執筆することも確かに多いし、欧米の偏見をただ繰り返して披露することは少なくない。

ただし、投稿の中でちょっと納得できない点もある。それは3のポイントで、「いつまでも外人であることに覚悟しなさい」ということだ。(英語で「outsider」というが、この場合珍しいことに文字通りの和訳はぴったりだ。)そうであるとしたら、人間にはその人間の文化があるし、何をしても文化は替えられないし、新しい文化を取得することも、内まで溶け込むこともできない。

私は、そう思わない。確かに、私はいつまで日本に住んでも、帰化しても、日本生まれの日本人と違う。ただし、東京生まれの日本人が青森に移住すれば、同じだ。青森の生まれ育ちの人と同じようになれない。同じ東京であるとしても、幼い頃からアイドルを憧れ、芸能界に入り、活躍する人は、和歌の世界に身を浸し、大学教授をやりながら和歌を刊行する人と根本的に違う。帰国子女も日本でずっと育ってきた人と違う。それでも、この日本人は皆、日本の文化の内人であろう。血脈や産土に魔法的な力を与えない限り、外国で生まれた人も、外人ではなくなれると思わざるを得ない。(私はいつできるかは別として、一般的に考えれば。)

その上、こういう風に人間を区別すること自体は、深刻な問題の症状なのではないかと思う。英語で「Identity Politics」というが、人間を種類に区分して、種類毎に適切な態度などを決めることだ。種類というのは、人種はもちろん、性別、階層などがある。問題は、そうすれば、誰がどの種類に属することは大変重要な問題になるが、決め難いケースは少なくない。それに、この種類は全て合致するではなく、一人の人間に対する複数の態度が必要となる。

皆はただ人間であると言えるのは、社会によって有利な立場に置かれた人だけだと言われるが、その通りだと思う。女性であるからこそ不利を課されるのは事実だ。ただし、「女性」を対象とするべきのは、社会改善の政策のみだと思う。社会が「女性」と見なす人間には、対象になる「男性」と見なす人間に比べても不利はない状況は好ましい。その途中で、ある人は女性であるかどうか決めなければならないかもしれないが、そのような決めつけはいつも暫定てきであると認識するべきだろう。そして、重要なのは、当事者の感じるアイデンティティーではなく、社会に見なされているアイデンティティーだ。問題は社会の態度や制度であるからだ。

作品に戻ろう。外人の作品の問題は、無知で作成して、不利を課された人にさらに不利を課すことだ。(ところで、これはこの問題について敏感である人は、アメリカで黒人の女性が白人の男性について書いても普段は問題にしない理由だ。白人の男性には一般的に不利は課されていないからだ。)該当する文化の中から書く人はそのような問題を起こす可能性はより低いであるのは確かなのだが、確実ではない。日本人が作った神道を軽蔑する作品も存在するし。問題は作品の結果で、作者の背景ではない。

自分の文化について書いても、どういう風に描写しているか意識するべきだ。見せ方は無意識で決まったら、偏見に陥る恐れがある。だから、自分の文化について書いたほうが危ういかもしれない。異文化について書けば、正しく見せるように努力しなければならないことに、すぐ頷ける。なのに、自分の文化について同じように努力するべきであると言われても、抵抗するだろう。自分の文化だから、外人に注意されるものか、と。

そして、知識や理解を別として、観点もある。外人の観点と内人の観点。しかし、観点といえば、どちらでも重要だ。同じぐらい重要だ。少ない方を特に促すべきだろうが、いつでも両方歓迎するべきだ。それに、ある観点を外人のものか、内人のものか、決めなくても良い。観点の価値は、多様性から発生する。その多様性をどう描写すれば良いかは、別な問題だ。

仕事の前に刺激された内容を急いで書いているので、構造が乱れたと思う。ちょっと纏めたい。

文化の内と外の間にはっきりした一線を画すのは難しい。ただし、文化の外から内へ移動することは可能であるのは明らかだ。文化について作品を作る場合、外から作ろうとすれば必要な研究は山ほどある。そうしないと、思わず軽蔑な失敗を犯す可能性は高い。そして、いつも文化の見せ方について意識しなければならない。文化の内から作ろうとすれば、人生そのものが研究になったので、更なる研究は不要だろうが、見せ方への意識はまだまだ必須だ。そのように慎重に著された作品は、観点は多ければ多いほどよい。

思ったより長くなってしまった。他の仕事の前にやりたいことはできなくなった。仕方がないよね。


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