神聖性を保ち、絆を深め

先日の10月2日には、伊勢の神宮の内宮で式年遷宮のクライマックスの遷御の儀が滞りなく執り行われた。浄闇の中で、「御」は厳かに旧正宮から新正宮へ御遷りになった。この神事は一般公開されていないし、神聖性が保たれている。

ところで、遷宮の公式ホームページでビデオが見える。私はまだ見る余裕はなかったが11月3日まで見えるので、見るつもり。儀式の中心は映られないと決まっているが、神事の様子が分かると思う。楽しみにしている。それで私と遷御の儀の絆をさらに感じる。

ここでちょっとした矛盾を感じる。神聖性を保つために、神域と俗界をはっきり区別すべきだが、一般人から距離を置けば、絆が深めることは期待できない。他方、絆を結ぶために神宮を庶民に親しくさせれば、神聖性は失いがちだろう。日常的な存在を神聖視することは難しい。初めて偉い人と対面すると、緊張するが、十数回目になるともう気軽に話せるようになる。

神社界でこのような矛盾がよく生じると思う。9月23日付の『神社新報』の社説で神宮大麻やお札の神聖性を保つことの重要性を強調する。その関連で、商業に見えないようにするべきだと強調したし、通信販売を避けるべきだと言った。それでも、神宮大麻は伊勢で大量生産され、卸業者の県神社庁を通して代理店の神社に届く。商業とどう違うかは見いだしにくい。有数の神社の御祈祷も同じである。メニューから欲しいものを選んで、指定料金を払って、順番通りに行ってもらう。美容院や遊園地とどう違うかと問われてもおかしくない。

私は、両面を重視する。神聖性はないと、神社はどういう存在か。それでも、人が近づけなければ、共同体の精神的な拠り所になれない。確かに、「売る」を忌み言葉にすることでちょっと区別できるが、それだけで足りない。

簡単胃実現する有効な対策はすぐに思い浮かぶはずはない。なぜなら、そのような行動が存在していればもう神社界で一般的に採用されているはずだからだ。解決策が存在するかと思うが、簡単に思いつくはずはない。

考えたら、一つの条件は、日常の世界との乖離を感じさせることだ。だから、授与所がお店の雰囲気になってはならない。お金の受け方もお見せと違ったら良いだろう。時間がちょっとかかる手続きで神聖性を保とうとすれば、手続き自体も神聖性に貢献するべきだと思う。そうすれば、参拝者は手続きを参拝の経験の一部として体験して、その時間を惜しまないからだ。確かにお正月に数千人にお札を授ける場合、それは難しいが、それでも考えた方が良い。

要するに、一般の人が一般の生活から一旦離れて神社と接すれば、神聖性は保てるだろう。そして、そのような離れることを容易にすれば、絆を深めることも可能になるだろう。同時に実現することは、勝負だ。

明日の外宮の遷御の儀でも成功できるだろう。


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