陰影の礼讃

先日、論文誌で谷崎潤一郎の『陰影礼讃』に触れた論文を読んだ。原作は読んだことはないが、間接的に刺激を受けた。随筆の趣旨は、日本語は、英語と違って自然に曖昧な表現をするということだそうだった。英語で内容をはっきりするが、日本語で書けば、解釈の余地は広いという。谷崎の随筆で物理的な陰影も取り上げられたそうだが、この投稿で言葉の話題について考えたいのだ。

まず、日本語は曖昧であるとは言え、「さびしい」といえば、「喜ばしい」と解釈するのは普段は許されないだろう。(文脈をうまく操れば、このような解釈も支えるけれども、普段はそうではない。)そうではなかったら、日本語はただの音にとどまる。言語にはならない。だから、比較として、叙述が否定する範囲を考えよう。日本語の叙述でも、否定する範囲は広い。しかし、残された否定されていない範囲は、日本語の方が広いということだろう。主語がない文章で、誰がやったかは曖昧なのだが、何かが行われたことも、何が起こったことも明らかだ。動詞に指定されている。つまり、解釈の余地が許されると言えよう。

「阿吽の呼吸」のことで、この余地があっても日本人は全く同じ解釈を見ると思う人さえいるようだが、そうではないのは明らかだろう。余地を残せば、受け入れる人はその余地のすべてを使用する。それに、解釈の余地の境も人によって異なると予測できる。あり得ない解釈もあるかもしれないが、特定するのは難しい。そして、言葉にはこの余地を残せば、相手の解釈は自分の発想と大きくずれても、相手を批判する立場にはいない。解釈を自由にして、許された範囲を逸脱していないので、妥当な解釈だ。同じように、受信者の解釈を発信者の意図であるとも言えない。その可能性もあるが、他の可能性もある。

このような言葉の扱いは魅力的だと思う。まず、受信者の想像力を刺激するし、受信者が自分の話題について考えるので鵜呑みの恐れが次第になくなる。そして、発信者に一番評価できる解釈を挙げることも良いと思う。批判する理由を必死に探さない方が良いと思うが、自分の解釈と発信者の意図の差を認めることは、その一環になる。何かを言って、相手がどういう風に受け止めて、変身させるかを楽しみにするのは良いだろう。

ここで、神道の「言挙げせぬ」も関わる。言葉を一切言わなければ、相手の解釈に一番広い余地を与える。言葉はないと、否定された内容はないだろう。祭祀や神楽を体験すると、何かを感じる。その何かは間違っていると言える人はいないだろう。体験を積み重ねて、神道的な世界観を作り上げる。

それでも、意味を特定しなければならない場合もある。鉄道の安全基準の場合もそうだし、原発事故の後の状況の説明もそうだろう。従って、両方ができる言語は求められる。協働する場合、相手と組み合うために意味をきちんと伝えなければならない。そのため、日本論理検定協会で意味をきちんと伝える技能を焦点とする。ここで基準が見えてくるだろう。協働する場合、恊働に一致するように意味が会わなければならない。それ以外、相手の解釈に任せて、そして相手の解釈の余地を広げてあげた方が良いと言えよう。まだまだ未熟な考えだが、それで余地を許す。


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