世界中、古代史についての面白い説は多数ある。理由はすぐに分かる。証拠は大変限られているので、確かな証拠を歪曲せずに多くの説を提唱することはできる。このような発想は遊びの範囲から出ないが、私にとって楽しい遊びだ。それに、歴史には相違点を加えて、現実にならなかった歴史を考えることも楽しいし、このような空想に近いと思う。
「神」の字を持つ天皇は一人の歴史的な人物から発生した説はあるようだ。詳しい説明を見たことはないが、面白いと思い、ここでちょっと独特に展開させたいと思う。
まずは、神武天皇はそのまま歴史的な人物ではないことは、確実だ。考古学の結果から分かるのは、紀元前7世紀には王権はなかった事実だ。それに、神武天皇から崇神天皇の間の天皇には古事記や日本書紀でも事績はないので、架空な天皇である説は認められているようだ。これで、神武天皇=崇神天皇はもう簡単に思える。
では、崇神天皇と応神天皇を合併する理由は何だろう。歴史をちょっと見よう。中国の倭人伝で卑弥呼が登場するのはご存知の通り。神がかりになって、王権を統治したと書いてあるが、起記神話を見れば、神功皇后に似ている。神功皇后にも神の託宣を伝える性質はあるし、天皇の代わりに大和を治める。それに、朝鮮半島へ遠征する。もちろん、神功皇后が朝鮮半島を征服した確実な証拠はないが、卑弥呼の使いの話の変貌である可能性は高い。現在の推測は、奈良県の桜井市の箸墓古墳は卑弥呼の古墳なのではないかというが、年代は3世紀後半であるという。神功皇后も、起記神話の年次から計算すれば、3世紀になる。
箸墓古墳に戻ろう。起記神話によると、箸墓古墳に葬られているのは、崇神天皇のおばのヤマトトトビモモソヒメだそうだ。つまり、崇神天皇の一つ前の代の女性だ。そして、神功皇后の息子は、応神天皇だ。神功皇后もヤマトトトビモモソヒメも卑弥呼に基づくとすれば、崇神天皇も応神天皇も、卑弥呼の跡を継いだ大王に基づく可能性は充分あるのではないか。
証拠はこれだけではない。起記神話によると、大神神社の祭祀が崇神天皇の御代に始まったそうだが、考古学の結果で、4世紀に始まったようだ。崇神天皇も、応神天皇とともに卑弥呼の跡継ぎであるとしたら、また年代が重なる。そして、伊勢の神宮の祭祀は、崇神天皇の皇子の垂仁天皇の御代に始まったそうだが、考古学の結果は5世紀ぐらいまで確認できる。しかし、外宮は、雄略天皇の御代の5世紀に鎮座されたそうだが、これが考古学と合致する。だから、伊勢の神宮の祭祀は卑弥呼の孫や曾孫によって開始され、100年後で雄略天皇によって外宮の祭祀が加えられたと仮設したら、証拠に合う。雄略天皇はもちろん、歴史的な人物で、日本書紀で書いてある年代に実在したのは確実だ。(中国の歴史書で「武」と呼ばれるという。)
この仮説で、皇族が女性の卑弥呼から発生する。起記神話で女性の天照大神から発生するのは言うまでもない。
この話は、証拠を歪曲しないと言える。ただし、完璧ではない。例えば、卑弥呼の跡継ぎも大和で王権を握ったと言うべきだが、応神天皇の古墳は、ちょっと遠い。もちろん、「応神天皇の古墳ではない」と言えるが、ヤマトトトビモモソヒメの古墳を証拠としたので、そうする理由は必要だ。確実な歴史話ではないが、このようなことを考えるのは、本当に楽しい。