神社の公共性

10月7日の『神社新報』に神社の公共性を強調する論説が載っていた。行間を読めば、全国神社総代会で筆者が好ましくなく思うことが述べられたようだが、その内容まで推測できない。それはともかく、神社の公共性について考えさせられた。

先ず以て、神社は一つの民間団体であることを忘れては行けない。持っている公共性は民間的な公共性だ。それでも、民間的な公共性は重要だと思う。公共な場や施設の全ては国家の管轄の下に入れば、それは国家に過剰な権力を与えると思う。だから、民間団体だ公共な場を提供することは適切で重要だし、神社には相応しい。

具体的に「公共性」は何を指すだろう。必ず同じ行動になるとは思わないが、候補を掲げたいと思う。一つは、誰でも入れる公共空間だ。原則として、神社の境内はそうだ。だから、境内に門を付けることに慎重に考えるべきだ。夜にも閉鎖するのは良くないと思える。仕事の環境のために昼間に入れない人は少なくないので、そのような人のために解放するべきだろう。もちろん、安全を考えなければならないので、回廊がある神社で回廊に入れないようにしても良いだろう。賽銭箱や参拝する場所を門の前で設ければ、充分だろう。

そして、祭祀も原則として解放するべきだ。この「原則」には例外があると思う。なぜなら、神社の公共性と同じように、秘儀は神道の重要な要素であるからだ。秘儀を解放すれば、もう秘儀ではないので、ここに対立する理想がある。しかし、解放は原則として恣意的に人を祭祀から排除するべきではない。

同じように神道と関わる組織を原則として解放するべきだ。ここにも問題がある。世襲も、地域性も神社に重要だ。社家は普通だから、世襲する神職は多いし、この伝統は神道の発生まで遡る。大神神社の最初の神主のオオタタネコは大物主神の子孫だったし、歴代宮司はかれの子孫だったそうだ。出雲大社の宮司も世襲だし、民社の多くもそうだ。(明治時代に、この伝統は一時的に崩壊の危機に陥ったが、終戦で助かった。)ここで、妥協案がある。世襲で神職や壮大になる権利を持つのは良いが、世襲ではない人にもなる可能性を与えるべきだ。地域性も同じだ。氏子になれるのは氏子区域に住む人のみであるとしたら、それ以外の人には崇敬者の同じように資格を提供するべきだ。

この三つを一括に考えれば、神社は排他的であるべきではないと言える。これでもう一つの側面が現れる。参拝者の理念などを問うべきではない。神観念や政治的な立場を問うと排他的になるので、無視するべきだ。もちろん、聖域である神社へ敬意を表すことを条件に設けても良い、というより設けるべきであるが、それは乱暴な行為をしないことなどにとどまるべきだろう。公共性を守るために条件を最低限に抑えるべきだ。同じように、別な団体と密接する行為を慎重に考えるべきだろう。他の宗教法人との関係もその例だ。

最後に、大前提がある。神社の存続を重視するべきだ。神社が消滅すれば、公共性を当然失う。その神社の公共性を守るために存続を危うくしなければならない場合もあるが、それは窮地である。少なくとも、他の団体のために存続を危うくするべきではない。ここで、国家も「他の団体」の定義に入る。国家から独立する公共性こそは重要だから、慎重に考えるべきだと思う。

神社は、ある地域や崇敬者に公共に提供されるので、その関係を最優先するべきだと思う。


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