教師の主な仕事は生徒の前に立ち、教えることであるとよく思われる。もちろん、最近の教育方針の進化の成果で、教師が一方的に生徒に与えるとしないのは常識だと思うが、少なくとも教師の仕事は生徒とやり取りすることであると思われるだろう。
しかし、それだけではない。確かに私の教えることで生徒とのやり取りだけになることは多い。生徒の質問に答えたり、英語の添削をしたりすることは主役だ。ただし、私の教える方法は殆どの教師と異なる。実は、私が大学で教える場合、私も違う方法でやる。私の英語のレッスンで、生徒の計画を支援する役割だが、大学や学校で特定された知識や技能を与えるのは目的だ。そうするために、授業の準備は必要だ。そして、生徒はマンツーマンではなく、団体で教える場合、複数の生徒ができることを講じなければならない。
だから、準備時間は必要だ。新しい方法で新しい内容を教えようとする場合、準備時間がろくに教室の時間の10倍以上になる。他人が用意した教材を使って典型的な内容を教える場合、教室の時間と同じ時間で準備できるだろう。教材を確認して、利用方法を決めて、そして生徒への対応を考えるためだ。そして、生徒の練習問題も必要だ。ゼロから作成することになれば、これにも相当な時間がかかる。教材からとれば、正解を確認しなければならないが、用意する時間の節約ができる。
そして、教室が終わったら、生徒の宿題の採点や添削をしなければならない。これにも厖大な時間が必要となるが、仕事の必要な一部だ。
計算すれば、経験が豊かな教師で、もうなれている教材を使う場合、教室以外の準備時間は教室の中の1.5倍が必要だと言えよう。つまり、一日で教壇に立つのは3時間以下。なれるまで、さらに時間は必要だから、一日の教壇を2時間以下にするべきだ。
でも、これはまだまだ最低限だ。これはただ単に既存を教材をそのままで使って、普通のことを生徒に教える程度だ。それは教師の基本だから、これとどまっても許せるが、教育に貢献するためにさらに時間は必要だ。当年度の生徒の長所や弱点に合わせて成長させる授業を講ずるために、教え方を改善するために、その場やその学校に適する授業や教材を用意するために、さらに時間は必要。そして、教師の自己養成の時間もあると良い。いじめ対策の指導、社会問題に応える力、更なる教える力などは、時間はないと魔法的に現れない。
学校の場合、生徒の休み中教師が戦略的な準備に携わっても良いだろう。そして、学期中の教壇の時間を一日3時間に抑えれば、日々の準備はできるだろう。前提は、使える教材が提供されていることだ。この構造は、教師の極楽ではなく、最低限の労働環境になるのではないかと私は思う。