流出の写真

最近、西洋のメディアで所謂「復讐ポルノ」という問題が取り上げられている。典型的な形は、女性の元交際相手が交際していた間に撮った裸の写真をネットにアップし、女性の家族や職場に写真の場所を知らせることだ。その行為で、女性の生活を混乱させたり、解雇させたりするのは目的だそうだ。だから「復讐」という。それ以外、メールに不正アクセスして、裸の写真を盗んで、そして同じように公開する行為がる。最後に、盗撮の写真を公開することも同じ範疇に入るだろう。

このような行為は許せない。わざと人の生活の破壊を図るのは悪徳な行為だ。少なくとも、写真の削除が命じられるような法的な措置は必要だし、違法行為にするべきだろう。盗撮と不正アクセスの場合、簡単に違法行為にできると思うが、交際中に撮らせてもらった写真の扱いはもう少し難しい。写真を撮った時に許可あったし、著作権も持っているので、違法のことが意図によるので、法律で定めるのは難しい。その場合でも、削除させる権利を法律で保証するべきだと思う。

しかし、根本的な問題は、防止策や法律対策ではないと思う。根本的な問題はこの行為の結果である。

客観的に考えよう。女性の裸体が披露される。これで公開される情報は、その女性には乳首があること。これはびっくりするほどではない。体の形も、服越しより詳しく分かるが、服を着ても一応分かることだ。その点で、問題になるべきことはない。そして、写真の存在だ。盗撮の場合、女性が悪いはずはない。撮られたことさえ分からなかったからだ。しかし、他の場合でも、恋人同士で裸の写真を楽しむのは悪くないだろう。実物の裸体を楽しむのは恋人の定義だから、写真が存在することで悪くなるとは言えない。不正アクセスで盗まれた写真の目標は、健康維持などの性的な行為と無関係なこともある。それに、自分の裸体の写真を撮ってもらうことはただの趣味であるとしても、悪い趣味だとは言えない。他人に損傷は愚か、迷惑さえかけないからだ。

だから、「最悪」の場合、このような写真の公開がちょっと変わった趣味を公開するに過ぎない。それは確かに恥ずかしい。でも、7歳の時に牛の仮装でパーティに参加した写真も、大学生には恥ずかしい。そして、弁護士として成功を納めようとする女性には、中学生時代のチアガールの写真は、職場でもてあそばれてほしくないだろう。でも、牛の仮装やチアガールの写真が公開されても、結果は短期間の恥ずかしさにとどまるでしょう。解雇にならないし、離婚にもならない。裸の写真の流出の結果は、このレベルにとどまるべきだと思う。

実際にそうではないのは明らかだ。幼稚園の先生であれば、解雇になるだろう。一般的に先生であればそうだろう。他の仕事も危うくなるし、結婚も危ぶまれる。実例で保障された推測だ。このような結果があるからこそ、この行為が人に大変な傷をつける。だから、人を防衛したかったら、社会的な問題はこの反応だ。

反応を合理的な程度に抑える方法はよく分からない。女性に、裸で見られることは悪いという概念をつかないのは基本だろう。そして、社会的に女性の体や性的生活をそれほど重視しない方が良い。仕事の決定は、仕事の成績で決めるべきだ。犯罪や詐欺の行為は関係するが、裸の写真は違う。このように社会の態度を変えるために、複数の変化は必要だろう。一つは女性の社会的な地位を向上することだ。役職に就いている女性が多くなれば、体しか見ない傾向が弱くなる。そして、裸であることについての過剰反応を抑えるのも良い。日本で、温泉の存在がこのことに貢献すると思うが、裸の写真集を出した女優や芸能人への態度を考えれば、まだ完璧ではない。

行動自体を撲滅することはできない。どうしても、悪徳な人をゼロにすることはできない。だから、犯されても波紋が少ない社会情勢を整えるのは重要な対策だと思う。社会で、人の不要な傷を設けるべきではない。

遊動生活:雇用

遊動生活で一番問題になるのは、仕事だろう。確かに、年金で生活を送る人もいるし、お金持ちで働かなくても困らない人もいるが、殆どの人には働く必要がある。そして、現在の仕事の殆どは、固定した場所で行われるので、遊動生活を営むと就職できない。

遊動生活と一緒にできる仕事は、農業での収穫や土木建築の仕事があるが、このような仕事は主に低賃金で、社会的な位置も低い。遊動生活が低所得者に限ると、その生活に対する偏見が自然と湧いてくるし、遊動生活を選んだ人には必要以上他の成長が塞がられる。だから、雇用の他の選択肢を考えるべきだ。

一つの分野は芸能だ。自分の芸を身と一緒に国中に運ぶのは当然のことだから、その側面から問題はない。だから、芸を披露してお金を集める機会について考えるべきだろう。路上演出を許したり、仮劇場を用意したりする工夫は必要かもしれない。

手芸もできる。道具を運ぶがちょっと難しくなるかもしれないし、移動工房も要るが、自営業だから雇用の問題はない。そして、ネット販売すれば、場所とは関係なく全国に売れるので、このような手法を活かしたら、ファンを集めてある程度の尊敬を得る仕事もできる。フリーライターも、小説家も、漫画家も同じだ。行政が遊動生活を認めて、連絡先の確保を保障すれば、そのようなフリーな仕事は遊動しながらできる。

このような職業は、優れた才能は不要とは言え、誰にも向いているとは言えない。非正規雇用や自営業で作品を売る仕事は、私の頭の中の遊動生活のイメージになるのだろうが、この職業の全ては社会の主流からちょっと離れている。非正規雇用は軽蔑されるかもしれないが、作品を作って生活を営む人もちょっと変わった人として捉えられると思う。この二つだけであれば、遊動生活がちょっと社会の中心から離れて行う。長期的に考えれば、それは良くない。普通の市民が遊動生活を営めば、本当の意味で自由に選べるからだ。そして、事務職などに向いている人も、遊動生活を選ぶことが出来るようになる。

この点でも、通信技術が助けになる。今は、事務職に務めるために事務室にいる必要は全くない。ファイルをメールで受け取って、自分のノートパソコンで処理して、そして最後にメールで返す。雇用しない理由はないだろう。特に、ごく普通の一般事務であれば、会合に出席しなくても良いし、締め切りまでに片付ければ良いので、事務室の中で監督される必要もない。実は、弁護士や税理士の仕事も、ネット上でできるので、行政がそのような活動を許可した方が良いだろう。

このような仕事をネットで出来るようにしたら、遊動生活を営む人だけではなく、離島や山間地に住む人にも役に立つ。さらに、山間地などの住民の個人的な利益だけではなく、地域の経済再生にも貢献する。つまり、居場所を関係なく多種な仕事ができるように制度を整えたら、遊動生活の可能性に大きく貢献し、地方の経済再建にも貢献する。前にも述べたが、自由を増す政策にはこのような結果はよくあると思う。皆の自由を拡大したら、予想外の素晴らしい使い道が見つかる。

遊動生活:学校教育

遊動生活で大きな問題になるのは、学校教育だ。二つの鉄則が矛盾するからだ。一つは、人には家族を作る権利と自由があることだ。生活の選択のために家族を構える権利を侵すわけにはいかない。もう一つは、子供には親の意向にも関わらず、現在社会で生きるための教育を与えることだ。だから、遊動生活する親には子供を産む権利があるが、その子供を教育する必要もある。その上、子供の教育のために遊動生活を中止させるべきではない。それも自由を縛ることだ。

それでも、学校で養育を受けるのも重要だ。他の子供、そして異なる家族環境や背景を持つ子供と一緒に学ぶのは教育の重要な一部だ。その上、続々転校することは、子供の成長には良くないそうだ。簡単に納得できる。常に新しい環境に慣れようとする子供は、教育を吸収することはできないだろう。

解決し易い場合もある。それは、団体的に遊動生活を行う場合だ。そうであれば、子供は複数あるので、山村のような学校政策はとれる。教員も遊動生活をして、子供と一緒に動く。そして、子供の同級生などが必要以上変わらない。教員はもちろん公務員で、教材も提供される。効率の遊動学校になる。実現するために複数の問題が発生すると思えるが、無理ではない。管轄する教育委員会などの制度的な問題もあるし、グラウンドの提供などの物理的な問題もある。教材の運び方も問題になるが、大きなトラックを学校とすることもあり。このような問題は、真剣に取組めば解決できる。

より根本的な問題は最低人数だ。子供一人に教員を添えるのは予算的に無理だし、他の子供との接触もないので教育として良くない。子供が10人程度になったら、遊動学校を開くことは可能だろうが、10人未満の場合は難しい。特に、ある核家族がその家族だけで独立して遊動する場合は難しい。子供は一人か二人であることは多いので、教員を添えられない。それでも出来るだけこの生活を可能にするべきである。

幸い、現在の通信技術が役立つ。ビデオチャットで授業に参加したり、教員と他の生徒・児童と話したりすることはもう出来る。しかし、本当に会って対面することと違う。だから、年に数回子供が特定した場所に集まって、教室で授業を受ける義務を課しても良いだろう。この義務は、遊動生活にちょっと制限を置くが、子供がいれば親は完全に自由に動けなくなる。そして、同じ場所に何回も戻ることはいやであれば、団体を組んで、遊動学校を開いても良い。

このような制度が実施されたら、予想していない問題も解決策も現れると思う。ただ、重要なのは行政の干与だ。義務教育は、国家が提供しなければならない。私立学校を開くことも自由だが、そうするための経済力はない遊動生活を営む家族にも子供の教育を保障しなければならない。この制度が義務教育を超えて、高校にも及ぶかどうかは、政府の判断に委ねられる。義務教育ではないので、なくても良い。そして、高校生になった子供は、親と別居して高校に通うことはできる。離島の場合はそうだと思う。ただし、義務教育の間、国家が遊動する生徒・児童に公立学校を提供するべきだ。

遊動生活:連絡先

遊動生活の実践的な問題の一つは、連絡先だろう。現在の通信技術で、携帯電話を持てばどこでも連絡は取れるが、携帯電話を持つために住所が必要になることは多い。通信販売もそうだ。届け先はない限り、注文できない。

この問題の解決は、主に民間に任せるべきだと思う。なぜなら、任意に使うサービスであるからだ。このようなサービスは、国家が均一して提供するのはよくないと思える。民間で、使い易さを競って向上を実現できるし。それでも、行政にするべきことがある。それは、住所はない人が借りられる連絡先や届け先を受け入れる義務を課すことだ。連絡先はこのような会社であることを理由に取引を拒否することを禁じるべきだ。そうしないと、まだ未定なリスクを背負いたくない会社の億は遠慮する恐れがある。この点で会社はある意味で悪くない。リスクを避けるのは営業の常識の一部だからだ。しかし、その当然な考え方で国民の自由が制限されれば、行政が関与するべきだ。このような制度を利用して、なれて行けば、リスクをちゃんと測ることができる。このような届け先には特別な手数料がかかる可能性もあるが、500円未満であれば認めるべきだろう。郵便物も、宅配便も、簡易書留もこのような届け先に届けられるように義務を課すべきだ。

そして、届け先を提供する側にも義務を付けなければならない。一つは、当然、住所なしの行政が発行する身分証明書を受け入れることだ。住基カードを持っている遊動する人なら、契約を結ぶことができるのは必要不可欠だ。

業者が提供するサービスは、郵便局の郵便私書箱に似ているが、重要な相違点がある。まずは、一つの場所に限るわけにはいかない。つまり、連絡先や届け先を業者で作成したら、業者に届け出したら物理的な届け先を変更できる制度は必要だ。そして、郵便私書箱のようにほぼ毎日届け物をとる条件は設定できない。もちろん、物理的な問題がある。生ものは、すぐに受け取られていないと腐るが、規則によって変えられない事実だ。遊動生活には、住み着いた生活にはない不便が発生するが、逆の場合もある。生ものの届けは難しいことは、その不便の一つだ。もちろん、契約には保留する届け物の量の制限も、保留する機関の制限も設けても良いが、実に使えるような制限が良い。

一つの心配は、犯罪を犯したら犯人は見つからないのではないかだろう。確かにそうだが、現行の制度でも同じ問題があるし、犯罪は可能であることを理由に自由を制限するのは原則として許せない。犯罪以外の用途はない場合は別だが、このように殆どの人が合法に使うはずなサービスを禁じるわけにはいかない。

このようなサービスがあれば、住み着いた人も使う可能性はある。住所を公開したくない人やよく旅する人が使うだろう。予想できない使い道もあるはずだ。ごく一部の人の自由を保障する政策は、多くの人の自由も拡大することは少なくない。