今日、川崎市外国人市民代表者会議関係で川崎市の外国人市民の実態調査のワーキンググループに行ってきた。調査の調査票の案がよく進んでいるので、来年度の予算が出れば、実現できるようだ。この調査で、外国人市民の生活のあり方を把握しようとしている。その一面は、文化的な暮らし方だ。
最近、「多文化社会」が取り上げられている。例として、ヨーロッパの諸国がある。しかし、私は多文化社会に対する疑問を抱くようになった。可能であるかどうか、そして可能だとしても、良いかどうかという疑問だ。まず、多文化社会を定義しよう。
「多文化」というのは、一つの社会の中には複数の区別できる文化が共存する状態だ。ただし、日本には関東人と関西人がいるだけで多文化社会にはならない。関東の文化と関西の文化は両方日本の文化の一種であるからだ。関東人も関西人もそう思う。一方、中世のヨーロッパで、ユダヤ人の文化とキリスト教徒の文化は二つの文化だった。両方はそう思ったし、文化を区別するように両方が努力した。もちろん、一線を画すのは難しいが、双方が文化を別々に見做して、区別をよりはっきりさせようとすれば、多文化になると言えよう。
この定義で、多文化社会は常に不安定だと思うし、少数派になる文化が必ずと言って良いほどの確率で弾圧の対象になる。なぜなら、二つの文化が違いを強調して隣で暮らすが、人間は別の文化を排除する本能は強いからだ。別の文化が別の国にあるとしても、戦争の原因の一つになることもあるが、一定の距離を置いて共存できる。家は隣同士であれば、それは無理になる。
具体例の一つは言語だ。国の中で二つの言語が二つの文化の母語となれば、そしてお互いに他方の言語を流暢に話せるようになることを評価しないか、抑制するかとすれば、この二つのグループが文字通り相互理解できない。問題があれば、話し合いで解決できないので、簡単に軋轢になって、暴力に展開する。
だから、多文化共存を目指すべきではないと思ってきた。
一方、豊かな文化を目指すべきだと思う。豊かな文化というのは、重層的な文化で、多面的な文化で、多様性を満ちている文化で、多種多様な要素を含む文化だ。言語が複数生きている文化は豊で、宗教も、音楽も、料理も、服装も多種多様である文化は、豊かである。
豊かな文化を作り上げるために、主に二つの方法がある。一つは、市民の創造力や想像力を自由に駆使させることだ。もう一つは、外国からの移民を促進することだ。日本で、移民のおかげで肉まんやラーメンがあるし、漢字も渡来人によって持ってこられたそうだ。しかし、多文化社会は危ないので、渡来人が日本の文化に溶け込むように措置をとるべきだ。多様性がある文化を用意すれば、溶け込むために特徴のすべてを失う必要は全くない。実は、必要条件は一つしかないと思う。それは、日本語を身につけることだ。日本語はできないと、日本の文化に溶け込めない。
日本語能力だけでは足りないが、日本語に加える要素は自由だ。もちろん、日本の伝統文化は良い。生け花、茶道、歌舞伎などを制覇すれば、日本の文化に入るだろう。武道も同じだ。ただし、現代文化でも良い。アニメや漫画、アイドル、大笑いなどもそうだ。食文化も候補になる。日本語ができる、生け花と茶道を趣味とする人は、日本の文化に浸かっていると言えよう。この人はイスラム教徒であるとしても、多文化ではなく、豊かな文化に貢献していると言えるのではないか。
この立場から、移民を歓迎するべきと同時に、慎重に審査するべきだ。