義務教育の必要性を否定する人は少ないだろう。教育を受けない人は、就職はできないので社会の一員にもなれない。自分の文化的な成長にも大きな妨げになる。しかし、教育自体は必要であると認められても、教育の内容についての論争はある。義務教育は特に問題になる。なぜならば、義務教育は誰でも受けなければならないかだだろう。自分にとって重要な内容は入れてほしいが、好ましくない内容は削除して欲しい。
例えば、道徳の授業で愛国心を教えてほしい人は少なくない。一方、それに強く反対する人も多い。歴史学者が歴史の重要性を強調するし、科学者は科学を推薦する。だから、ここでもう一つの意見に過ぎないことを言う。
自由の立場から考察すれば、義務教育の内容をなるべく定めない方が良いと思える。定めたら、自由を制限するからだ。しかし、何も言わなかったら、「義務教育」に相当する行動を指摘するのは難しい。だから、一部を定めるべきだと思う。
その一部の一番重要な部分は、勉強するための技術である。「勉強」を広い意味で捉えれば、これがスポーツなどの訓練も含める。つまり、取得したい能力の取得方法を教える。理由は二つある。一つは、この技術を持っている人は、何でも勉強するからだ。つまり、自分の興味を持つ内容を勉強できるようになる。もう一つは、現代の社会環境がめまぐるしく変貌しつつあるので、学校で習った内容は現役である間に適していなくなるはずだ。生活を送るために、新しい技能を修めなければならない。だから、学校でそうするための能力を与えなければならない。もちろん、時間の経過とともに学校で学んだ勉強方法も適していなくなるだろうが、新しく台頭した勉強方法は、最初の頃既存の勉強方法で取得されるので、学校で学んだ技能から出発して、付いていける。
この教育の内容は何だろう。識字は基礎的だが、パソコン等の操作方法も必要不可欠だ。ネットの検索方法はもちろん重要だし、パソコンの基礎操作も重要だ。ネット検索をもう少し一般かすれば、それは情報源を探す方法になる。学びたい内容についての情報を探す方法は本能ではないので、教えなければならない。もちろん、見つけた情報の信憑性を判断する方法も習わせるべきだ。これでクリティカルシンキングの一部が入る。
このような技術に加えて、勉強する方法も習った方が良い。集中できるコツとか、勉強の計画の作り方などは、基礎的な内容であるべきだと思う。
そして、現代社会で生きるための知識や技能を教えるべきだ。具体的に、法律や手続き、家計簿のやり方、契約の味方、一般にお金の管理、健康維持などだ。誰でも日常生活に取り組まなければならないことについて教えるべきだ。
もちろん、この内容は、現行の義務教育の内容と大きく重なる。現行の義務教育はそれほどダメではないので、当たり前だ。そして、義務教育の全ての時間を必要としないと思う。もう少し体系的に教えれば、そして比重を増せば、効果がより良くなるだろうが、それは程度の問題にとどまる。ほとんどの人は、義務教育が社会に生活できる、そして必要な知識や技能を学べる人を育てるべきである主張に頷けるだろう。
ただし、重要なことが残る。国家がこの内容を義務教育の中に入れる義務をつけたら、残りの内容を自由にしてもかまわない。残りの内容はある新宗教の教典に基づいて内容ばかりであるとしても、児童・生徒には他のことを勉強する技能もあるので、大人になったら自分の未知を探すことはできる。そして、一般社会に活動する技能も保障されているので、事実上その宗教を脱出できる。
もちろん、学校のほとんどは、残る時間には数学や科学、歴史や文学、体育などを入れる。現在の学校で教えられる科目には価値があるので、なくなるとは思えない。ただし、義務教育でもその自由を保障すれば、社会的な自由も大きく増すと私は思う。