伝統保存と自由

伝統を保存するために、一般市民の自由を保障しなければならない。

この主張に違和感を感じる人は少なくないだろう。伝統を継承することは、普段は個人的な自由と対比的に考えられるからだ。伝統に従えば、自分の正確を表現できないだろうか、など。それはまず間違いだと思う。確かに伝統を継承したくない人もいるが、継承に熱意である人も存在する。その熱心の人を継承させるのは重要だ。

まず、やりたくない人には伝統の継承を期待できない。強制的に継承させようとしても、怠慢な継承になるので、伝統の性質が劣化して、結局消滅する。伝統を保存するために、やる気のある人を惹いて、熱意で受け継いでもらうのは理想だ。

確かに、それは理想だと認めてもらうだろう。しかし、流行のためにある伝統が人気を一時的に失えば、将来のために保存するべきなのではないか。将来にはまた人気になる可能性があるが、その次期に甦るために、完全に消滅しないように気をつけなければならないだろう。その危機的な次期には、強制的に継承してもらっても良いのではないか、と。

一概に否定したくないが、ここで「強制的に」と言えば、どういう意味だろう。不人気になったら、職業にならないので、誰かに趣味としてしてもらうつもりだろう。そうすれば、やりたくない人は、強制する人が亡くなった途端辞めるのではないか。継承の幻にとどまる。本当の強制が必要であれば、国家の干与を受けなければならない。法律で継承させれば、やる気はなくても刑務所を避けるために最低限を果たすだろう。

ただし、国家の干与は極めて危うい。ヨーロッパの歴史からの例を挙げれば、数えきれない。ローマ帝国がキリスト教を導入した時に、その前の宗教の伝統を抑圧して消滅させた。イギリスの16世紀には、それまでのキリスト教の伝統は政府によって破壊された。日本の歴史にも例があるが、明治維新は一番顕著だろう。神道の伝統の多くは滅ぼされた。神宮の伝統さえも塗り潰された。そして、イギリスの16世紀も例も、明治維新の例も、その伝統を「維持」する名目で行われた行為だ。国家は、伝統を維持しようとしても、破壊することは少なくない。長い歴史を考えれば、国家の管轄に入る伝統は廃止されると言い切れるだろう。

一方、伝統を自由にすれば、いつの時代でも継承したい誰かを見つけることはできると思える。少数派の伝統に一時的になるだろうが、誰もいないとは思えない。伊勢の神宮の式年遷宮は良い例になるだろう。国家が手放したが、戦後盛んになって、継承されてきた。

ただし、ここで推薦する自由は、国家レベルだけではない。継承したい人を確保するために、継承する人の資格をなるべく緩和するべきだ。特定された血統に制限すれば、消滅するはずだ。後継者を社会のどこからでも見いだせるような仕組みは好ましいと私は思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: