伝統の定義

伝統とは何か。

一般的な定義は難しいだろうが、ここで法律で使える定義は欲しい。そして、自由を縛らない定義が良い。つまり、伝統の内容に触れない定義はよい。それでも、京都の祇園祭や能楽が伝統の定義に合わなければ、それは問題だ。典型的な伝統は「伝統」であるべきだ。

伝統の本質は、過去から受け継がれた、未来へ受け継がせることだ。それをどうやって法律に納めるだろう。

先ず、未来のことは、指定された期限はないことだろう。つまり、2100年まで続く活動は伝統になれない。永遠に継続できることは重要だ。もちろん、人間は未来を知らないので、永遠まで続かない伝統は多い。伝統が途絶えても、それまでの伝統であった資格を否定する根拠になるべきではない。だから、この基準を満たすのは簡単だろう。

過去はどうだろう。二つの要素は重要だと思う。一つは、行動を過去の通りにすることだ。さらに、過去にこういう風にされたからこそ、これからもこういう風にすることだ。前例を重んじて、史料や模範を見極めて今の行動を決めること。

能楽や祇園祭がこれに当たると思うが、和歌は入らない。和歌には過去から継承する要素があるが、いつも新しく作成するので法律上の「伝統」にならない。ただし、曲水の宴を催す団体は対象になり得る。伝統の行動の中で新しいことがあるが、その枠は決まっているし、その形も決まっている。相撲もそうだろう。毎回の試合が異なるが、伝統は多いので法律上の「伝統」になり得る。

ここで、基準が問題になる。機械的に当てられる基準は無理だと思うので、裁判官にある程度任せなければならない。それでも、指針になる基準は重要だ。その基準として、次はどうか。新しく作られる部分を真剣にしなくても、行動はまだ成り立てれば、伝統として認められる。曲水の宴で、和歌を本気で読まなくても、平安時代の服装を纏って、平安時代の庭に座って、歌を書こうとするので、その部分は大丈夫だ。その上、新しくする部分は伝統保護活動の範囲外だから、免税などが当たらない。

次は、継承の長さの問題だ。先ずは、少なくとも60年間続いてきたことを条件とする。100年間は正直に言えば長いので、それより短い方が良い。そして、今の寿命で、60年間で伝統の創設者が伝統の認可を見ることはできる。新しい伝統は作ってほしいので、これも良い点だ。

ただし、ここで注意すべき点がある。創設者から学んだ人ばかりであれば、伝統の自立性は疑わしい。だから、もう一つの条件は、創設者から学んでいない人が伝統を継承していることだ。つまり、創設者が弟子に教えて、そしてその弟子が自分の弟子に教えたら、条件が満たされる。直接に創設者から指導を受けていない人は、伝統の継承者として認められていることは重要だ。

途絶えた伝統の復活の場合、条件をちょっと緩和するべきだろう。先ず、創設者はいないので、その条件が当然満たされる。そして、途絶える前に参加した経験がある人が復活に参加すれば、途絶える前の継続した機関を数えることを認めるべきだ。つまり、100年以上の歴史があった祭りが終戦直後で途絶えたら、今子供として参加した方が復活に参加すれば、即座伝統として認める。そうではないと、復活した人から学んだ人が主役になって、そして30年間が経ったことを条件とすれば良いだろう。これがあれば、復活が成功に終わりそうであるので、支援するべきだ。

もちろん、伝統の変更を余儀なくされる場合もある。その場合、裁判からの認可を得たら、変更しても良い。例えば、祭りの行列の伝統的な道は新しい高速道路によって横断され塞がれたら、道の一部を変える許可を得ることは簡単であるべきだ。伝統として男性に制限された行動を女性にも開放することも、簡単に認めるべきだと私は思うが。つまり、参加できる人の範囲を広げることを認めるべきだと思う。一方、伝統の中の行動の変更は、専門家に考察してもらって、許可するかどうか決めなければならない。もちろん、許可を得なくてもしても良いが伝統保護法人の資格を失う。

一方、新しい伝統の発足も促進したい。だから、新しい伝統に向けた活動も、伝統保護法人の活動の一部として認めたほうが良いだろう。割合として制限を設けなければならないが、活動の3割程度が良いだろう。基準を満たせば、新しい伝統になるのでさらに新しい伝統と挑戦できるようになる。

このような制度が導入されたら、その施行時期までに60年の歴史を持つ伝統はすぐに認められる。神社の祭りの多くはそうなるし、伝統芸能の例も多い。

この投稿で掲げた数字は絶対に守るということではないのは言うまでもないだろう。ただ、このような形で伝統を定義したら、自由を絞らずに伝統を守ることはできるので、自由も伝統も重んじたい日本には相応しいのではないか。


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