金銭教育

家では、真由喜に毎週お小遣いを与える。百円だ。ゆり子によると、そして周りの人の話を聞くと、これは日本でちょっと珍しいそうだ。その上、お小遣いを2年前から始めた。近い将来に、真由喜が自分で管理する銀行口座を開くつもりでもある。これも珍しいそうだ。そして、今年から小遣い帳に記入することになっている。

この方針の原因の一つは、やはり文化の違いだ。イギリスで当たり前のことだ。私の初銀行口座は、7歳ぐらいで開けてもらったし、母も同じだった。だから、戦後からずっとこのような習慣だった。そして、お小遣いも幼い頃からもらった。まずは、お菓子が買えるほどのお小遣いを毎週もらったが、小学校半ばぐらいから毎月もう少しちゃんとした金額を毎月もらうことになった。だから、ハーフの子供にふさわしい重複の文化の側面もある。

しかし、本当の理由は教育目的である。真由喜にはお金を賢い扱いを習ってほしい。私たちが「お金を大事にしなさい!」と言うが、それだけで習うはずはない。「大事にする」の具体的な内容は明らかではないし、そもそも技能だから練習しないときちんとできるようにならない。

だから、お金を与えて、なるべく自由に使わせている。毎週の百円は、毎週ハイチュウに使っても良いが、そうすれば他のことを買うための貯金がなくなる。そして、ちょっと貯金すれば、町歩きの途中で目に入った可愛い箸置きを買っても良いが、その文のお金がなくなる。犬や猫のための募金に寄付することは褒めて促すが、お金がその用途でもなくなる。特に、記入するようになったので、お金がどこへ流れ出たのが分かると思う。そして、これからの使い方を自分で考えてもらう。

もちろん、助言を上げる。見たばかりなものを買わないように注意して、お昼を食べている間に待ってから買うようにするなどのことがある。今なら素直にしたがってくれるので、ちょっと冷静に考えることの重要性が分かってくると思う。そうなるために、待ってからまだ買うつもりであれば、買わせなければならない。そうしないと、習うのは、すぐに買わないと買えなくなることだけだ。原則として真由喜の小遣いの扱いは、真由喜が自分で決める。

実は、ここで良いことになりそうな状況があるが、一般に危ぶまれることだ。真由喜がアイカツのカードにはまりそうになった。集めようとしているし、組み合わせに気を配っている。このカードはもちろん百円程度の小遣いで購入できる。そうできるように販売元が企てているし。しかし、ちょっと貯金すれば、数百円でより多くのカードを入手できる。それに、特別なカードの入手も可能だ。

つまり、お金を扱いを習うために、最適な環境になっているのではないか。真由喜が自分のお金でハイチュウなどを買ったら、カードは買えなくなる。一方、一ヶ月我慢すれば、6枚入りのおもちゃを買うことはできる。6歳で、これほどの短期間の目的しかできないかと思う。

そして、真由喜が小遣いの全てをアイカツに注入しても、問題にはならない。確かに将来のために大きな貢献にはならないが、6歳の子供の将来を保障する責任は、本人ではなくて親にある。私たちは、高校や大学のための貯金をちゃんとしているので、その側面では心配はない。アイカツで今の楽しみと、将来のためにお金の理解を得れば、それで充分。

家族の休日

家族の祭祀を行うために、時間は必要である。家族が皆揃って集まれる時間を確保するのは、現代の社会では難しい。だから、家族祭祀を促進するために、家族の休日を定めた方が良いと思う。

家族の休日は、その家族に限った休日の制度だ。家族に年間に一回の休日を、家訓で定めて届け出るのが制度の基本になる。家族の休日は公表になる原則は良いかと思うが、少なくとも雇用先や学校などに公表される。

休日の設定には複数の方法があると良い。一つは、新暦の月日である。もう一つは、新暦の月日に近い金曜日か月曜である。(他の曜日でも良いが、その二つには人気が集まるだろう。)そして、旧暦の月日で設定できる。他の暦も認めるべきだ。すぐに思い浮かぶ例はイスラム教の暦だ。キリスト教のイースターの定義はややこしいが、毎年回ってくるので、認めるべきだ。(定義は、春分の日の後の次の満月の後の日曜日である。)

認められた暦は多様であっても、別の日に祭祀を執り行いたい家族もあるだろうから、毎年月日を変更することも認めるべきだ。ただし、この休日は他の人に影響を及ぼすので、その変更は該当する年の前の年の三月末までに届けなければならないことにしなければならない。(つまり、該当する年度が始まる前に、少なくとも9ヶ月前に決めなければならない。)

家族の休日には、家族の人には学校も仕事も休む権利が与えられる。(義務ではない。)学校では、大きな行事や重要な試験は家族休日をなるべく避けて行う義務を課す。完全に避けるのは無理だと思える。(学校の中で、どの日でも少なくとも一人が家族休日になる可能性は高いからだ。)その問題を解決するために、重要な試験などを二回行うことを基本とするべきだろう。その方針にはもう一つの利点がある。一回目に病気になった人は、二回目で受けられることだ。仕事で、出張などで事実上無理にする行為も違法とする。

家族休日にも振替休日を認めた方が良い。つまり、国立の休日と同じ扱いか、それ以上尊重する扱いになる。

この制度が実現されたら、家族休日が集中することは予想できる。例えば、お盆にする人は多いだろう。そして、大型連休をさらに延長するために定める人は少なくないはずだ。他の休日と組む家族も予想できる。そして、大きな宗教の祭日に合わせることもある。イスラム教でラマダンの祭日を定める人も多いかもしれないし、キリスト教でクリスマスかグッドフライデーか。

重要なのは、全ての家族にはこの一年に一回の休日を与えることだ。平等に与えれば、雇用の差別とつながらないからだ。そして、家族の休日は家族によって違うので、友達と過ごせないことは多い。そのため、家族で過ごす傾向が強化されると思える。

現実的な影響に加えて、このような具体的な制度で国家が家族の重要性を認めたら、国民の考え方に影響を与えるに違いない。個人主義の蔓延に歯止めをかけるだろう。

家族の祭祀

今まで家族の経済的や物理的な構成について論じてきた。お互いに扶養する義務で家族の本質を促進する狙いがあるが、理想的な家族が助け合ったり、支え合ったり、愛し合ったりする。これは強制できない行動だから、家族法の制度で促すことにとどまる。

本格的な愛し合いは、義務から発生しない。そして、本格的な親孝行も義務から発生しない。私はそう信じる。(だから、哲学者のカントと異論する。)栄養的な扶養を義務づけるのは良いだろう。それは最低限だし、嫌な気持ちで栄養を与えても、栄養になることには変わりはない。一方、嫌な気持ちで精神的な支えを提供することはできない。逆に更なる負担になってしまう。だから、愛し合いを促すために、家族に義務を課さない。むしろ、新しい権利を与えることになる。

ここで掲げる提案は、仮説の範囲から出ない。なぜなら、心理学を基盤とするが、私はまだ心理学をそれほど深く勉強していないからだ。方針は、家族の間に愛情を促す環境づくりには変わりはないが、具体案は心理学の事実に従わせるべきだ。

さて、仮説は何だろう。愛情を培うために、家族が一緒に行動するのは必要であること。これは十分条件ではないと思う。計画が失敗して、誰かのせいにして家族の絆を破ることもあるだろう。しかし、必要条件であるだろう。一緒に動かない家族には愛情はないだろう。

この共同行動が良い方向に転じるように、条件を考えよう。先ずは、家族の時間のすべてを占めないことは大事だろう。時間の多くを占めれば、この行動以外なことをやりたがる人は嫌になって、家族から離脱する恐れがある。そして、失敗できる計画ではない方が良い。家族の絆はそもそも強い場合、失敗でさらに強まることはあるが、絆が弱かったら失敗をきっかけに破裂することもある。この方針は、絆の最初の芽生えの環境づくりだから、失敗を避けるべきだ。

このような行動を、家族祭祀と名付ける。家族祭祀は、漢字の通り氏神様で祭祀を行うことは可能だ。お寺での仏事も可能だし、協会でのキリスト教の神事も可能だ。しかし、それだけではない。例えば、特に宗教色はないお正月の恒例の祝いも家族祭祀に当たる。家族の人の誕生日を祝うことも候補だ。

だから、基本的な方針は、家訓でこのような祭祀を定めることを制限せずに促進することだろう。

そして、環境づくりに制度を整えるべきだ。先ずは、家族祭祀には経済的な基盤は必要だ。家族の財産について論じた場合、祭祀のための土地の確保を許すことにも触れたが、ここでもう少し広い意味で考えたい。

利益を自由に使える家族の財産には制限を課すべきだと述べたが、別枠で家族の祭祀のための財産を認めたほうが良いだろう。家族祭祀の財産は、収益だけではなく、財産自体を祭祀に使用することを可能とすれば良い。つまり、投資だけではなく、貯金として認める措置だ。そして、制限を設けるが個人が自分の家族の祭祀のためにお金を出したら、税金の控除になる措置も良い。必要な道具があれば、先ずお金を家族に寄付して、控除を活かす。そして、家族が道具を買う。前述したように、家族の一般財産に寄付するお金は控除にならないが、祭祀には特別措置がある。

そうすれば、家族祭祀の範囲を明確に定めなければならない。だから、家族祭祀の財産枠を認めてもらうために、家訓で家族祭祀を定めなければならない。この祭祀はそもそも自由だが、家族の皆には参加する権利があること、そして家族以外の人が原則として参加しないことは重要だ。目的は家族が一緒に何かをすることだから、家族の一部に限ることも、主役を家族以外の人に任せることも適切ではない。

この祭祀は、簡単なお正月でも良い。家族が集まって、おせち料理やすき焼きを食べたり、紅白を見たりする程度でも良い。だから、殆どの家族は、新しいことをしなくても家族祭祀を持つと思える。それは当然だろう。普通の家族には愛情の絆はもう存在するし。しかし、お正月の例で明らかになるように、家族祭祀に必要なのは、経費だけではない。一緒に過ごせる時間も不可欠だ。次に、その点について論じたいと思う。

家族の事業

家族がお互いに支え合えば、一緒に事業を進めるのは当然な発展であるのではないか。今の税制でも、家族が営む事業に家族を雇えば優遇があるので、同じ考え方を深まれば、家族の営業を制度的を後援できる。

まずは、家族には営業に必要な施設を所有することを許すべきだろう。このような施設は、非課税にならないが家族の所有物として、家族の決断で処分されたりするし、相続税の対象にはならない。そして、家族が雇用されたら、特別な扱いを導入すれば良いだろう。もちろん、営業の収益は、家族に譲られた財産から区別するべきだ。営業が繁栄すれば、年度の財産制限を簡単に超えるからだ。このような区別は、現行の宗教法人制にも見えるそうだから、根本的な問題はない。

家族の経営について、特別な形を目指すと良いだろう。一つの可能性は、家族以外の人の雇用を禁じることだ。個人事業と契約を結ぶことは許すべきだし、他の企業と協力することも良いが、家族として営んだら、職員は家族に限ることは可能だ。家族の形は自由だから、養子などの手法でどうしても必要な人を取り入れることはできる。ただし、その人に対して扶養する義務が発生するし、家族の財産に対する権利も発生するので、普通の会社と違う。

そして、家族の事業に上限を設けても良いだろう。売上高で制限するのは相応しいだろう。それより大きくなる事業を、別な形に再編して継続することを可能にする制度は重要だろう。それとも、家族から営業の一部を外して、別な企業にすることも可能だろう。

制度の目的は、家族の経営に相応しい規模の事業であれば、家族で営んだほうが有利であることだ。そうすれば、家族の企業を構成することが賢い戦略になるので、零細企業には家族の企業が多くなる。それで、家族の重要性がさらに根付くので個人主義を和らぐ措置にもなる。

ただし、懸念する点もある。前に書いたが、安定した社会を作り上げる為に、一人の市民には複数の部分的に重なる絆を与えたほうが良いと私は思う。家族は当然にその絆の一つだが、職場も一つになり得る。だから、家族と職場は同じであれば、その絆の効果が希薄化する。家族と職場を別々にした方が良いのではないか。

ここで、さらに前に掲げた提案が関わる。普段、人には二つ以上の雇用先があることを提唱した。それが実現されたら、一つの雇用は家族の経営だが、もう一つは別の企業になるので、絆の多様性は保たれる。確かに、このような措置がとられたら、核家族で企業を営むことが困難になるが、大家族も好ましい存在だから、それを促す制度は悪くないだろう。

このような制度の詳細を慎重に検討すべきだが、家族を基盤とする企業が多くなれば、家族の社会的な地位が高まるのではないか。

今まで、実践的な側面に重点を置いてきたが、次に家族の象徴的な側面について考えたいと思う。それを包括する言葉として、家族の祭祀について論じる。