個人主義と自由

『神社新報』で保守的な論説を読むことは多い。よく見るテーマは自由主義の批判だ。これは当然なことだろう。保守的な考え方が自由主義に反対するのは基本的な姿勢だと言っても過言ではない。しかし、私は違う。本当の保守的な考え方は、自由主義を擁立するべきだと思う。その理由は、このブログで前に触れた。つまり、伝統を保つために自由は必要であるからだ。一方今日の投稿で、自由主義の批判の一つに反論したいと思う。

それは、自由主義は個人主義とほぼ同じである誤解だ。

日本の伝統を考えれば、個人主義は確かに伝統から逸脱している。日本の伝統は、家族や共同体を重視して、個人より団体を重んじた。だから、日本人の保守派は個人主義に反対する。アメリカの伝統は個人主義だから、アメリカの保守派は個人主義を強調する。(この点は見逃しては行けない。日本の保守派とアメリカの保守派の著しい相違点の多くを説明するからだ。)

そして、欧米で発展させられた自由主義は、個人主義と深く結びついている事実は否めない。この十数年で欧米でも自由主義の個人主義が批判されるようになってきた。

だから、「自由主義イコール個人主義」と思ってしまうのは想像には難くない。それでも、間違いであると言わざるを得ない。

個人主義は、個人を集団より優先することだ。自由主義は、自由を重んじることだ。

まず、個人の立場から考えよう。個人の自由は、集団に貢献する自由でもある。自分の命でも集団のために捧げる自由も自由主義によって守られるべきだ。だから、自由主義が集団主義を否定するわけはない。

そして、集団の立場から考えよう。自由主義は、集団の自由も保障する。だから、個人の訴えで集団の習慣を廃止させるわけにはいかない。確かに集団の習慣を守らないと自由主義が個人主義になってしまう。なぜなら、集団はその共同体の本質を保てなくなるからだ。だからこそ、自由主義で強い特性のある団体の発生と存続を促すべきだ。

では、個人の立場に戻ろう。自由主義の基本は何だろう。集団のことを考えれば、集団を退出する自由だ。つまり、ある人を強制的に共同体に入れ込んで居続けさせることは認めてはいけない。個人には。集団の変革を要請する資格はないが、一方共同体のあり方などに違和感を感じれば、脱退するのは自由であるべきだ。

この場合でも、均衡制を保つのは重要で難しい。本格的に個人に脱退する自由を保障するために、共同体から脱退しても生活が営めるような環境は必要だ。共同体や団体の一つにも参加せずに生活できるのは可能でなければならない。一方、共同体には姿勢を決める自由を保障するために、社会的な流行に反する集団の存在も保障しなければならない。

共同体の一体感を重視すれば、制度でそのような結束を促進することはできる。そのような行動が自由主義に違反しない。むしろ、結集する自由は自由の重要の一種だから、保つべきで、促進するのは自由の本質に沿う。だから、様々な共同体を重視する制度についてこれから具体的に考えたいと思う。


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