先日、個人主義と自由主義が必ず一緒になるとは限らないと強調したが、この記事でその基礎的な例に就いて考えたいと思う。それは家族だ。
家族は明らかに一人の人間だけではない。しかし、一体感があることはごく当たり前だと思われている。実は、家族はその一員の一部であるかのように考えられている場合もある。例えば、親が子供に学費を出資すれば、それを寄付として受け取る人は殆どいないだろう。一方、別人の子供へ学費を出資すれば、それは奨学金で、寄付の典型例になる。
それでも、家族を捨てて個人的なことしか考えない傾向を憂える人は少なくない。最近だけではない。明治時代にも見つけるかと思うが、少なくともイギリスの19世紀に存在した。
私は、家族は重要であると思う。法律制が家族を認めて、支援したら良いとも思わざるを得ない。この後の記事で、その方法について論じたいが、ここで自由の立場から前提を考える。ここで勧める方針は、家族の絆を弱めるように見えるだろう。しかし、そういうつもりではない。後日に紹介する政策で家族を強化する予定だから、自由をきちんと保護しないと、小さな独裁者を生む結末になりかねない。個人の自由を保障してから、家族の強化に努められる。
まずは、家族を脱退する自由を保障しなければならない。これは物理的に家を出る自由だけではなく、法律上の縁を切ることも可能にするべきだ。具体的に言えば、離婚届は片方から提出できるようにするべきだ。より一般的に言えば、戸籍から出る方法は、ただの届け出であるべきだ。しかし、この一方的に離籍は、本人に限る。家族には子供がいれば、原則として元の戸籍に残るので、子供を持って離別したい人がいれば、和解や裁判の判決かがまだ必要となる。そして、謝礼金が必要とすれば、それも和解か裁判になる。ただし、全てを放置しても良いが、どうしても離別したいと思う人には、相手の同意も裁判の同意も必要とするべきではない。
そして、家族の形は、法律で決めるべきではない。子供を産めば、当然「子」として戸籍に登録される措置をとるべきだが、養子縁組を結ぼうとする場合、双方が合意すれば届け出で出来るようにすべきだ。今の制度はそれに近いが、例えば養親が年上である条件を撤去するべきだ。(成人になっていない人は別だ。子供の扱いは重要な問題だから、後日に論じる。)
その上、結婚を自由とするべきだ。今でも自由なのではないかと思ったら、そうではない。同性婚は認められていないだろう。そして、多妻や多夫の婚姻関係も認められていない。しかし、それを認めなければ、家族を重要にしたら、多数派の家族のイメージに従わない人に大きに不利になる。
ただし、婚姻で問題が発生する。同性婚は全く問題ない。夫婦と同じように二人だから、法律上同じように扱っても特に問題が発生しない。しかし、多夫多妻の婚姻は違う。配偶者は一人しかいないことを前提とする制度は少なくない。例えば、相続で配偶者の財産の半分を与える規則は、配偶者は三人が存在すれば無理になる。そして、本人が意識不明などになる場合、配偶者が当然代理人の権利を持つようになるが、配偶者は複数存在すれば、誰かを優先しなければならない。その根拠はどこにあるかが問題になる。だから、法律の調整が必要となる。ここで、具体的な措置を提案しない。なぜなら、このような家族関係を経験したことはないし、組むつもりもないので、何が必要になるかは分からないからだ。当事者と相談しながら法案を用意すべきだ。
家族では、縦の親子関係と横の婚姻関係がある。この両方を自由にすれば、家族を自由に組み合わせられるようになるので、そのように組まれた家族に重要な役割を与えても良い。
ただし、一つの自由が残る。それは、家族から一人を排除する自由だ。家族が決断すれば、個人を戸籍から外す権利が必要になる。個人の自由だけではなく、集団の自由を重んじるべきであるから。しかし、家族は個人ではない。儒学の思想から判断すれば、一番年上の男性の判断になるが、それに従うわけにはいかない。家族がどうやって決断するかは、次の問題になる。