前の投稿で、家族に一員を排除する権利があるべきであると書いたが、それで家族の決断の問題が浮上する。個人は、決定すれば決断になるが、集団を構成する個人の意志が違う場合もあるので、その場合でも決断できるような制度は必要だ。
日本の伝統は、家父長制だったと言えるが、それを一般的に課すわけにはいかない。なぜなら、女性を家族の権力から排除するからだ。自由に大きな支障を設ける。しかし、集団の自由に配慮すれば、家父長制の家族を可能にするべきだ。男性だけではなく、女性も家父長制を擁立する場合もあるので、そのような家族に入りたい女性も存在するだろう。
だから、家族には、家族の決断方法を選んでもらうしかない。
ただし、ここで問題がある。もう気づいたと思うが、家族がどうやって選び方を選ぶかという問題である。決める前の決め方、つまり初期値は必要だ。初期値としてどうすれば良いのか。
家父長制はあり得ない。なぜなら、女性一人で構えられている家族も充分あり得るからだ。その場合、その女性に決定権を与えなければならない。
民主主義の国に住むので、多数決は有力な候補だろう。しかし、多数決も避けるべきだと思う。なぜなら、集団が自分の「意志」を決める前に個人の自由を尊重するべきであるからだ。団体の自由も尊重するが、今の問題は、初期値としてその自由と意志をどう定義するかということだ。一方、個人の意志はそもそも存在しているので、定義には問題はない。だから、団体の意志の初期値は、個人の意志を出来るだけ尊重するべきだ。まだ個人の自由と均衡させる団体の自由は生じていないからだ。つまり、団体の意思決定の方法を定めない限り、団体には意志はない。
これを認めても、民主主義は、個人の自由を尊重するのではないかと思う人は多いだろう。確かにそう言えるが、充分ではない。多数決であれば、多数派には少数派を弾圧する力がある。だから国家には多数決に制限を課す憲法は必要不可欠だし、家族の初期値には多数決は向いていない。弾圧の可能性を排除するために、全員一致を条件としなければならない。
全会一致を基準とするのは危ないのは常識だ。一人でも行動を凍結できるからだ。それはそうだ。特に、団体が大きくなればなるほど全会一致の基準が非現実的になる。しかし、これで家族の特徴が助けになる。
まず、家族の人数は普段それほど多くはない。大家族でも、現代では十人を超えるケースは少なくなっている。核家族であれば、6人に至るケースは少ない。家族会議で皆で一致する決断は少なくないので、現実的にこの決断力を駆使できる。
そして、家族の決断でこの方法を変えることはできる。自由に変えられる。例えば、多数決に変えられるし、家父長制にも変えられるし、家母長制にも変えられるし、すぐに描写できない制度にも変えられる。それに、この最初的な変更は、家族が一人か二人である段階で行える。二人以下が家族を組めば、多数決と全会一致は同じであるので、問題はない。
ここで、二つの問題点がある。一つは子供の立場。子供は難しい問題だから、後日に詳しく論じるがここで簡単に言う。「全員一致」は、子供を含む。子供はまだ意志を言えない年齢であれば、決断方法は変えることはできない。
もう一つは自治性である。つまり、家族には家族以外の組織や個人に決定権を譲ることはできるかどうか。個人的に、そうしない方が良いと思うが、団体の自由を尊重すれば、可能にするべきだ。ただし、個人には家族から離脱する権利を保つように、家族にもその人の権限から離脱する権利を保つべきだ。だから、全員一致の決断方法は、放棄できないことにする。つまり、家族外に決定権を置いても、家族が全員一致で取り戻すことに決定すれば、それには法律上の拘束力がある。
この決断力の用途は、家族から個人を排除することもある。しかし、それだけではない。次は、家族が決めることを考えたいと思う。