溝の口周辺の散歩

コンクリート製の丸いところから、水が絶えずに流れ出る
久地円筒分水
昨日、新年抱負の一つの実現と取りかかった。それは、月に一回ちょっと長い散歩に出かける目的だった。川崎市の散策から始まるつもりだったので、皮切りとして溝の口周辺を歩くことにした。

溝の口から始まる散歩コースが載っている案内本を二冊持つが、そのコースを組み合わせたり修正したりして、自分に合うコーソを作った。特に、大山街道を歩いたことがあるので、そのところを省いて、二ヶ領用水{にかりょうようすい}や平瀬側に沿って歩いた。

溝の口から、溝口神社にお参りしてから、すぐに二ヶ領用水に着いた。この用水は、江戸時代初頭に出来たそうだが、後に川崎市になった地域の開拓に大きく貢献したそうだ。今は、散歩道になって、桜並木もある。用水の流れを遡ると、久地円筒分水に辿り着く。

木々の間から社殿が見えるが、周りの住宅街は見えない。
久地神社。角度選びは重要
久地円筒分水は、1941年に完成したそうだ。水の供給を競うことは多かったそうだから、円筒分水によって公平な分配があることを保障したようが。真ん中の丸い池から水がどこの方向へも同じ量で流れるので、丸の角度を決めたら、用水への分配する割合は決められる。その割合は、目で見えるので、紛争が避けられただろう。

駅周辺から久地円筒分水への案内板を見たことがあったが、実物を見るのは初めてだった。予想よりかなり大きかったので、登録有形文化財になった理由が分かった。それほど存在感があるし、歴史的にも意義があるからだと思う。

コンクリート製の橋のしたで平瀬川と多摩川が合流
平瀬川と多摩川の合流点
円筒分水のすぐそばに久地神社が鎮座する。この神社へお参りするのは初めてだった。境内は広くなかったが、巨木もあったし、崖に見える石もあったので、雰囲気は良かった。案内板によると、江戸時代に毘沙門天と弁財天を祀ったそうだが、神仏分離で天照大神がご祭神になったという。神社の呼称も、赤城社から久地神社に改められたそうだ。拝殿は一応立派だったが、その後ろに建つ本殿や本殿を覆う建物は、地味だった。

円筒分水が平瀬川から水を吸い上げるので、その点から平瀬川沿いに歩いて、多摩川まで至った。家から溝の口までよく平瀬川を沿って歩くので、多摩川に注ぐ点を見るのは前からの些細な目的だった。住宅地を流れる川だから、コンクリートで抑えられているが川崎市が発展する前の名残でもあると言えよう。川の氾濫は大変だったことは、簡単に想像できる。

鳥居の奥に本殿が見える諏訪神社
諏訪神社
多摩川に着いたら、川畦を歩いて南へ向かった。東急田園都市線をくぐって、未知な界隈に入った。目的地は諏訪神社だった。この神社の境内は狭かったが、参道が住宅の合間を縫って長く続けた。一の鳥居から未知がさらに直線で続くので、昔は境内は広かったのではないかと思える。明治維新で政府が境内の大半を徴収した可能性もあるし、戦後宮司が神社の財政難を免れるために売ったり開発したりした可能性もある。参道が名残になる。

神道の立場から考えると、参道の隣にある家は、聖なる境内に入らないはずだが、入れるのは参道からだから、微妙に感じる。

諏訪神社から溝の口に向かって、そして溝の口から帰った。本当に良かった。すっかりリラックスできたし、頭がすっきりした。次回の散歩を楽しみにしている。


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