靖国問題の個人的な見解

昨年末、安倍首相が靖国神社へ参拝した。韓国と中国が強く反発したし、海外メディアでの大騒ぎになった。そのとき、私の意見の投稿を公開したが、レッスンでその話題についてまだ話しているので、私の見解を説明したいと思う。

ここで、外交問題に触れたくない。むしろ、私が個人的に靖国神社に対して抵抗感を持つ理由は紹介したい。中国や韓国はどう思うとは、関係ない。

さて、先述べたように、抵抗感を感じる。出発点として、関係していないことを指摘したい。A級戦犯が合祀されたことは特に問題にならない。理由は神道の神学にある。本居宣長の有名な「神」の定義で、災いを著しく齎す存在も神として崇めると強調するし、神道の原点の一つは祟りを回避するための祭祀だったと國學院大學の岡田教授が述べる。だから、戦犯を神として崇めることは、その行動を称讃するところが、許せない態度でも可能だ。つまり、靖国神社の英霊へ重層的な態度を取ることはできると思う。二度と戦争の惨禍を齎さないように願う態度は一つで、もう一つは戦争に巻き込まれた一般の市民への謝罪を表すことで、さらに自分なりに国を防衛しようとする行為に尊敬や感謝を表すことだ。246万余柱の英霊に対して単純な態度を取るのはそもそも無理だと思う。

だから、A級戦犯が合祀されても、それは必ずしも参拝しない理由にはならない。確かに、正式参拝を目指したら自分の意向に合う祝詞を奏上してもらうのは難しいだろうが、それは別な問題になる。

それでも、私は靖国神社の本殿へ参拝しない。理由は、靖国神社の歴史にある。

靖国神社は、明治時代に建立された。明治時代初頭に、東京招魂社として建立されたが、官軍の戦没者を祀るために創始された。つまり、明治の新しい天皇制や国家神道の中心的なところだった。そして、時代が下がるとともに軍国主義の中心にもなった。明治維新の影響には良いこともあったし、悪いこともあった。私の見解で、靖国神社は悪いことと密接した。軍国主義はその一つで、大日本帝国もその一つだったし、大東亜戦争もその一つだった。

国家神道もその一つだった。神道の伝統を大きくつぶしたと思う。吉田神道の祭祀の方法さえ現在分かっていない。それは、数百年間神社神道の主流だった。仏教と密接な関係を持った神道も多かったが、神仏分離でそれは消えてしまった。数百年の伝統を担ってきた踏襲した社家は廃止された。伊勢の神宮でさえ伝統的な祭祀法が大きく変えられた。神社の土地の徴収され、神社が国家に依存しなければならない状態に陥れた。確かに、個人的に神仏分離は好ましいが、江戸時代にもその要素のある神道が存在した。その神道の種類のために、多くの種類を破滅する必要はなかったと思わざるを得ない。

靖国神社は、このようなことと密接な関係を持っただけではない。国家神道や軍国主義、帝国主義の象徴だった。帝国主義は、アジアにとっての悲劇だと思う。軍国主義は、日本史上の大きな悲劇として捉える。国家神道は、神道の歴史での悲劇であった。

この三つの大きな悲劇を象徴するために建立された神社に参拝するわけはない。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: