躾の目標

子育てと取り組めば躾の必要性を感じる。ただし、必要性だけでは動けない。方針も見つけなければならない。方針を見つけるために、まず目標を把握しないといけない。目標を把握すれば、その目標に達成するための手法を探ることは初めてできる。

だから、躾の目標は一体なんだろう。いい子が育つことだろう。しかし、それは抽象的で指針にはならない。より具体的に定めなければならない。私ももちろん考えたが、下記の目標に決めた。

行動するとき、他の人に思い遣りして、将来への影響をちゃんと考えた上で動き出す大人。

これは望ましい果実であるのは否めないだろう。責任を持って行動することは含まれているし、世のため人のために仕える精神も含まれている。(実は、否める。理由は後で述べる。)

しかし、ここで最初に指摘したい言葉は「大人」である。こうする子供は目標ではない。もちろん、子供がこのように行動すればするほど良いし、子供がこのようにしてくれれば喜ぶが、それは目標ではない。だから、子供がこうしなくても、躾には問題があるとは限らない。目標は子供の行動ではなく、大人の行動であるからだ。例えば、仮に私の目標は小説で芥川賞を受賞することとしよう。(本当にそうではないけれども。)このブログはその目標のための訓練として位置づけて、その目標のためにブログを書いていると言ったら、納得できるだろう。しかし、ブログで芥川賞を受賞する可能性はない。対象外であるからだ。それでも、ブログを書き続けることは目標と緊密に関わると言える。躾も同じだ。子供がいつも思い遣りして将来を考えて行動することは求めていない。

むしろ、子供が時々そうしないことさえ求められる。なぜなら、そうすると悪い結果が見える。お友達の悲しみとか、先生の失望とか、計画の崩壊等だ。それを見て、体感して、初めて思いやりや将来への配慮の必要性が本当に分かる場合もある。

そして、体罰はもちろん、罰を与えることは適切ではない。なぜなら、「罰を避けるためにこの行動を止める」という考え方は、「罰を回避できる限り、何でも良い」との考え方に繋ぐからだ。英語での諺があるが、それは「鉄則は、見つけられないこと」(The first rule is, don’t get caught.)この態度は躾の大失敗だと思うし、罰がこの態度を招くとも思う。

なぜならば、次の理由だ。罰というのは、自然に発生しない悪い結果を課す行為だ。自然に発生することは、天罰と呼ぶかもしれないが、天罰は罰の一種ではない。だから、罰を与える人は必要となる。その人の監視から逸脱できれば、罰は回避できる。そして、罰が目立つので他の悪い結果に気付かないこともあると思う。気づかせても、その結果の悪さは、罰をもたらすことに限ると思い込む恐れがある。だから、罰を与えずに自然の悪い結果に気づかせたほうが良い。もちろん、その瞬間で子供の活動が一変することは期待できないが、躾の目標を思い出してもらいたい。目標は大人の行動である。子供である間にそれはできなくても構わない。

このような躾を成功させるために、子供を放置しては行けない。大人の見守りは必須である。躾と直接に関わることは、子供に行動の悪い結果に気づけるように努めなければならない。そして、予想を促進することも一部だ。「そうすれば、そうなる」など。例えば、「今靴を履かないと、電車に間に合わない」とか、「それに上ったら、落ちてけがをする」など。しかし、行動の後でも明らかではない結果を指摘することも躾の一部である。「何々ちゃんは泣いていたね。可哀想。」とか「来週までチョコはもうないよ」など。

そして、更に重要な点がある。子供を長期的な問題から守ることだ。躾のために子供に行動の結果を体験させるのは重要だが、人生に重い影響を与える結果から守らなければならない。だから、行動を止めることもあるし、子供のために購うこともある。これも、躾の一部だ。もちろん、子供にこの結果を説明しなければならないが、怒ることではない。子供がちゃんと成長をはかっているので、怒る理由はない。

この躾で期待できないことがある。一つは、子供が即座言われる通りにすることだ。十分な理由も言えれば協力を得るだろうが、子供には必要性が見えない場合、従わないこともある。それに覚悟するのは親の宿命だ。親は、状態を長期的に見て、今の小さな問題は将来のために役立つことを踏まえて動く。もう一つは、子供が自分の価値観と全く同じく動くことだ。大人になっても、現実をちゃんと考えてから親と違う方向へ行く可能性がある。

だから、目標にさえ反対する可能性がある。考えてから動き出す人間は、伝統と違う方向へ動くこともある。伝統のままではないとだめだと思う人は、このような育て方に当然反対する。しかし、私はその考え方と根本的に違う。大きく間違っていると思う。

でも、この躾の実として、監視しなくても賢く動く子供は期待できる。子供は子供だから完璧ではないが、大人になる前でもある程度周りを考えてから行動することがある。思春期になっても、親に反対するのは当然だが、自分なりに他の人や将来を考えてから反発することは期待できるのではないか。そうする理由は、親がそう言ったからではないからだ。

つまり、子供の躾のとき、その子供の大人の将来には何が必要かと考えて仕付けるべきだ。躾は今のためではない。


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