現代社会は〆切や効率を大変重視する。職場で経験がある人は頷くと思うし、学校でも同じだろう。時間通りにできないと意味はないとよく訴えている。効率よくするべきだとも。
でも、本当にそうだろうか。
もちろん、本当にそうではないように述べる投稿の序文だ。
まずは、〆切。意味は全くないとは言わない。人間は人間だから、作品等を完全にすることはできないため、「これで充分」と決断して世に出す場合も多くある。そのため、〆切には役割があるだろう。ただし、絶対的な〆切であれば、まだまだ改善できる状態で出す恐れがある。それは、作成する人が怠ったからとは限らない。数ヶ月、数年間挑戦してからやっといい方法が明らかになる現象は珍しくない。そして、〆切はないと何も出せない人もいれば、〆切があると凍結して頭が真っ白になる人もいる。
効率も同じだ。〆切は、作品(科学的な成果を含め)の場合にふさわしいが、例えばレストランで食事を出すこととはあまり関係はない。ここで同じ役割を担うのは効率だ。同じ時間でどのぐらい食事は出せるか、一人で一日で荷物は何個届けられるかなど。
長い目で〆切を見れば、人生でなるべく多くの作品が出せるようにするためなのではないか。効率は、なるべく少ない経費で営業することのためかと思う。
しかし、これは本当に目指すべきことであるかは、疑わしい。
効率を考えれば、効率が低くなると、職員を増やさなければならない。これで雇用が増え、社会の格差が縮む。だから、非効率的なやり方は良い。
〆切はないと、作品の数が少なくなるが、ひとつひとつの質が高まるのではないか。
この考え方で、社会の中で急げ、急げと追い詰められる人と何も役割はない人が現れる。双方は苦しむと思う。双方は重い負担を感じると思う。これは本当に社会のあるべき姿なのだろうか。
私は今急がせられている方であるのは言うまでもないだろう。それでも、抜け道は見えない。一人で社会を全体的に変えるのは無理だし、どうすれば良いかも分からない。働く必要がある。創造する必要もある。時間に完全に気にしないと、それは無理だ。この事実も良く分かる。
Ars Magicaの仕事で、本の作成には事実上〆切はないような状態があるように努めて来た。最初に成り立たせるにはかなりの努力は必要だったが、この数年間できた。結果は、作品の評判は良いことだ。強く批判される作品は一つもない。そして、作者も続けられる。これは理想的な状態にもう少し近いのではないか。
人間には時間は必要だ。人間の極上の宝物も時間だ。時間の無駄に対する恐怖症が時間を奪っているのではないかと感じてきた。