能力基準

どの時代でも、当然だと思われる不合理な差別がある。そして、当然だと思うからこそ、不合理であるとは思わない。むしろ、合理な区別の結晶だと思いがちだ。例えば、中世ヨーロッパで、貴族に生まれたら支配者に適切であると信じた。百姓の間に生まれた人が万が一支配者になったら、大変なことになると思ったようだ。秩序が乱れるとか、社会が崩れ落ちるなどの予想だった。第二次世界戦争の前のアメリカで、人種が基準になった。黒人は、責任がある仕事には向いていないと思った。古来東西の例として、女性は家の外の仕事には向いていない偏見が制覇した。

もちろん、現在の人は、このような先入観はないと思う。今の区別は合理的で、原則として批判できない基準になっていると思い込む。確かに、個別の判断を批判する余地がある。人間は人間で、基準に正しく照り合わせない場合もあることは認められる。しかし、基準自体には問題があるとは思えない。

私は、それほど自信はない。

現代の基準は才能である。能力であるとも言えるし、実力であるとも言える。今発揮できる力も、潜在力も基準の一部をなすので、単純な言い方はちょっと難しいが、この投稿を読んでいる人は現代人だと思うので、分かるはずだ。

確かに、私も現代人だから、能力を基準とする合理性は見えなくはない。能力によって、役を果たせるかどうかが決められる。能力はない人は、仕事はできないので、能力はない人を雇っては行けない。

これほどの合理性を私も認める。勤務は出来ない人は、雇わない方が良い。その仕事の成果は企業や組織の他の人の人生にも影響を及ぼすので、広く考えなければならない。

しかし、能力を絶対的な基準とするのは常識になっている。つまり、複数の候補者が申請すれば、能力が一番高い人を採用するべきであると強調されている。この点で、私は疑問を抱く。

まず、能力が仕事に足りれば、それで充分。余っている能力が役に立たない。実は、現代でも資格は高すぎる理由で拒否される人もいる。これほどの才能がある人はすぐに転職する恐れから発生する決断だろう。しかし、それより広く適応できることだ。

仕事の負担に能力が足りる人の間から、何の基準によって選んでも構わないはずだ。仕事はできるのは前提だから、前述の悪影響の恐れはない。だから、仕事ができて、自分の親戚であることを基準としても差し支えない。仕事ができて、自分と同じ宗教を持つ人としても良い。繰り返して言うけれども、仕事ができることを前提とすれば、自由に決めても組織に悪影響を与えない。

そして、能力以外の基準で決める理由もある。

まず、人間には誰でも同じ能力を持つのは事実ではない。才能を持つ人もいるし、平凡の人もいるし、発達がゆっくりとする人もいる。そして、この範疇からどちらに属するかは、本人が選べるわけではない。才能は、肌色より選びにくいのだ。だから、才能を持たない人を選ばないことは、黒人を選ばないことと基本的に違わない。

それに、才能や能力は、人生の問題と向き合うことに役立つ。だから、一番立ち向かえる人の前から問題を払拭するが、なかなか乗り越えられない人の前にわざと積み重ねるようなことだ。能力は低い人は、就職するのは難しい。しかし、能力はないので、無職の状態でうまく生活を送る力はない。能力は高い人は、無職であっても巧みに行動して、人生を向上させる。これは「能力」の定義から発生する事実だから、否定する余地はない。これを踏まえたら、逆に仕事ができる人の間から、能力は一番低い人を採用するべきだとも言える。

しかし、そのように能力がギリギリ足りるかを判断するのは極めて難しいので、能力が足りることには疑いはない人を採用するべきだろう。そうすれば、一番低い能力の人を選ぶ理由は特にない。自由な基準に基づいて選べば良い。

能力主義が強調されてきた理由は、人種差別や男女差別を翻す武器として使われたことだと思う。しかし、この許せない偏見を払拭するために、もう一つ許すべきではない偏見を社会に強く根ざしてしまったと思わざるを得ない。この点がまた自由と連なるので、後日にさらに論じたいと思う。


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