自由な社会を維持するために、寛容は必要不可欠だ。一瞬考えれば、これは明らかな条件である。寛容はなければ、人が自分の判断と違う行動をとれば、批判したり、禁じたりするからだ。自由を維持するために、自分の方針と沿わない行動をとることを許さなければならない。三つの投稿で、その具体的な意味を論じたいと思う。
先ずは、他人が自損なことをする場合について考えたい。ここで大前提として、この人は成人で、何をしているかはよく分かると判断できる場合に限る。前にも触れたが、子供の扱いは深い問題だから、別な投稿で論じるつもりだ。行動の内容が分かることは、ここで論じるべき問題だから、この投稿の最後で取り上げる。
自損行為をなぜ許すべきかは、難しくない。その人の振りにしかならないからだ。だから、他の人には直接な影響があれば、禁じても良いし、起こらないように干与しても良い。他方、本人に限る結果であれば、強制的に賢くさせるわけにはいかない。
このことを段階的に考えれば、さらに明瞭になるだろう。多種多様な才能の持ち主を思い描こう。この人は、何でも出来る。仮に、絵画の世界で活躍することに決意したとしよう。では、この人が絵画で活躍すれば、確かに素晴らしい絵画が存在する。しかし、金融界に入れば、収入が数十倍になるし、生活は大幅に楽になる。これで、絵画の選択肢で自損を招いていると判断しても、金融界に強制的に入らせることはわけの分からない行動なのではないか。利益がある道の中から、一番になると他人が思う道を選ばなくても良い。そうではないと、自由は全くない。
そして、状況をもう少し厳しくする。選んだ道からの利益は期待できない。例えば、アイドルを目指す活動はそうだ。成功に終わることはほとんどない。一方、弁護士を目指す道で安定した生活が予想される。この場合でも、弁護士などに強制的にさせるわけにはいかないのは否めない。
だから、選ぼうとする道で損害を受けるとしても、本人にはそれが分かれば、差し止めるわけにはいかない。
ここで何で寛容は必要だろうかと思う人もいるかもしれない。自損を許すのは当然だ。天罰がつくし。しかし、そう簡単ではない。
ここで、本人には行為の損害が分からない場合についてちょっと論じたい。損失が待つ道は、分かったら誰も選ばないと思い込む傾向もあるようだ。しかし、そう考えたら、何でも差し止めても良いことになるので、自由がなくなる。だから、人が思わずに毒を飲もうとする時、慌てて差し止めても良いが、「毒であるよ!」と必死に説明してからも飲もうとしたら、もう止めては行けないと言えよう。(とりあえず、今回の服用で死に至る毒ではないとしよう。)教育に努めるべきであるが、その後で成人が分かりづらい選択しても、許すべきだ。
自損の行為の代表例は、賭博、麻薬、風俗などの下品とされている遊びだ。お金を無駄にしてこのようなことをするのは、頭がおかしくない人でも行ってしまう自損行為だ。しかし、賭博も麻薬も風俗も、法律によって厳しく規制されている。だから、現在社会では、このような行為は許されていないので、現在社会の自由には大きな欠陥があると言えよう。タバコとお酒も自損の行為であるかすぐにつながるかとも言えるし、この場合規制は単純に成人に限ることだ。冒頭に述べた通り、それは適切な規制だと思うので、お酒とタバコの扱いを批判しない。ただ、賭博や麻薬は同じだ。自損の行為だから、しない方が良いし、すべきではないとも言えるが、法律によって規制するのは自由を侵す行為だ。もちろん、他損を抑制すべきだが、それは飲酒運転禁止法などの措置にまかされている。麻薬などの場合、なぜ同じような措置に任せないのだろう。次の投稿から、理由になり得ることについて論じたい。