自由と寛容、その2:不快感

麻薬の服用は本人にしか悪影響を与えるので、何で自由主義を掲げる人が使用の規制を賛同するだろう。ここで、理由の一つについて論じたい。

その理由は、麻薬の使用が当人に嫌な気持ちを起こさせるからだ。つまり、ある人の麻薬依存の影響は、本人には限っていない。他の犯罪を犯さなくても、その見苦しい姿や自己管理の無さへの怒りは、周りの人の気持ちを乱して、環境を嫌にする。これは、他の人への影響だから、如何に自由主義を賛同しても、規制を認めるべきだと言われるだろう。

この考え方は危険。なぜなら、何でもを規制することとつながるからだ。

最近の取り上げた例から始めよう。安倍首相の靖国参拝が韓国人や中国人に嫌な思いを与えたのは否めない。それだけではなく、日本人の一部にも嫌な思いをさせた。これも、明らかな事実だ。だからといって、参拝を禁じるべきだろうか。この参拝を高く評価した人もいるが、提案した基準は「周りの人に嫌な思いをさせる行動を禁じるべきだ」ということだった。これを民主主義にしたら、「過半数には好きではない行動を禁じるべきだ」という原則になるが、これは明らかに自由主義からほど遠い。自由主義の基本は、少数派にも自由な行動や生活を保障することであるからだ。

この問題を考察して、ただ「好きではない」ことは不十分であると指定する政治家もいる。行動を禁じる理由になるのは、深い精神的な傷を負って、自尊心にも打撃を受けることだと言う。

あいにく、靖国参拝が明らかにこの範疇に当てはめる。韓国人は、国の存在を否定的に見る行動として、そして脅迫な行動として捉える。不快感を基準とすれば、如何に高く設定しても、禁じられる行動があれば、靖国参拝を禁じることはできる。だから、靖国参拝を禁じたくない人は、この基準を避けるべきだ。

左派にも同じような問題がある。例えば、同性愛の自由を称讃する人は少なくない。しかし、このような発言は、多くの保守的な人には不愉快である。深い痛みを感じる保守的な人もいる。称讃より実践には強い違和感を感じる人は少なくない。だから、不快感回避を基準とすれば、同性愛を禁じなければならない。

もちろん、ここで問題が発生する。同性愛者は、自分の性生活の禁止に対するものすごく強い不快感を感じる。だから、禁じてはいけないようだ。同じように、靖国参拝の禁止に対する憤りは抑えられない人もいるので、それも禁じてはいけない。

つまり、現実的な社会の中で、ある行動の許可に憤慨する人も、禁止に憤慨する人もいる。結果として、基準にできない。矛盾がある行動を強いるからだ。同時に許可も禁止も出すのは、無理。

解決策は一つしかない。憤慨や不快感は、禁じる基準として認めてはいけない。他人へ他の影響が認められたら、禁止措置をとることは可能だが、感情的な反発は足りない。この点は、150年前のイギリスの哲学者のMillの『自由論』でも認められたが、忘れられがちなのようだ。保守派はもちろんそうだが、保守派には自由主義を否定する人も多い。自由主義を否定すれば、自分の立場として問題はないが、私は政治的な立場として許し難いと思う。一方、進歩主義の方でも同じ現象が見えるが、進歩主義者の殆どが自由主義をも掲げるので、矛盾を抱えている。

この寛容は本当に簡単ではない。人が腹が立つことを言っても、批判以上何もできない。批判を無視する人なら、そして批判を自分の正当性の証拠として捉える人であれば、その不快感がなくならない。しかし、自由な社会を保つために、このようなことを認めなければならない。これは言論の自由の重要な一部である。自分の人種を揶揄することも、自分の宗教を悪徳な迷信として軽蔑する人も、寛容しなければならない。これは確かに容易ではない。それでも、するべきである。倫理が求める行動は必ずしも容易であるとは限らない。

それでも、制限は必要。特定な人について嘘をつく行動、真実や意見に限ってもハラスメントに至る行動は規制するべきだろう。このようなことは、自分の生活や信念を表す行動ではなく、他人に襲撃する行動であるからだ。人を殴ることとそれほど違わない。人を死なせる行動でもあるし、社会が重く受け止めるべきことだ。ここでバランスをとるのは極めて難しいが、原則は分かり易いだろう。一般論は、自由だ。他人がそのことを聞いて苦しむとしても、禁じてはいけない。個別論は、制限できる。だから、イスラム教や神道を残酷に批判する話は自由であるし、白人や黒人を揶揄する「喜劇」も自由だ。しかし、イランの最高指導者について嘘をつくことや、ハラスメントすることは、許してはいけない。

一線を画すのは難しいので、別な投稿に後回ししたい。それを考える前に、もう一つの点について考えなければならない。宗教を残酷に批判することは、悪質な行為として捉えられることは多い。悪質な行為でも寛容するべきではないだろう。

次回、論じたい。


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