自由と寛容、その3:悪徳

悪徳は、寛容の対象外であると思われることは多いだろう。しかし、そうしてはいけない。そうすると、自由主義が台無しになるからだ。

簡単な例で裏付けられる。キリスト教によると、イスラム教は悪徳である。(そう言わないキリスト教徒は多いが、キリスト教の殆どの種類の教学によると、そうだ。)他方、イスラム教でキリスト教は認められている。イスラム教ほど良いとは言えないが、許すべき宗教である。だから、悪徳を禁止する方針であれば、イスラム教を禁じる。キリスト教を禁じる根拠は今のところ、ない。

これは自由主義ではない。そして、前回の不快感の論理がここにも当てる。人の腹が立つ理由は、その行動は悪徳であると思うからである場合は多い。だから、腹が立つことを基準としないと、悪徳の寛容をもはや要求している。

この事実を認めたくない自由主義者は多いようだ。口で認める場合は確かに少なくない。自由主義な国家構造で特定した倫理制度を前提とすべきではないと強調することは多いが、差別を禁じたり、「不合理」な反論を棄却したりすることで、まだまだ「本当の悪徳」を認めない。

もちろん、このような傾向には強い理由がある。悪徳に何も制限を課さないと、社会が成り立たない。ただ単に争っている個人の他ならない。弱肉強食の環境になってしまう。だから、何らかの制限を避けることはできない。無限に悪徳を認めることは、本当の自由主義にならない。後日により詳しく考えたいのだが、簡単に言えば下記の通りだろう。

自由主義は、夫々の個人には自分の歩む道を選ぶ自由を保障することだ。だから、他の人の選択肢を奪う行動は制限しなければならない。他の人の選択肢を奪う悪徳は、認めなければならない。そうしないと、悪を選ぶ自由は保障されていない。

この基準は後で重要になるが、ここで一言。「選択肢を奪う」は、「不快感を起こす」ことではない。同性愛者に「同性愛は悪徳である」ということは、同性愛を選ぶ可能性を奪わない。人が反対なことを促進しても道を選ぶ例は数えきれない。だから、許すべきだ。同性愛者には不愉快だし、個人的に悪徳な行為だとも思うが、自由主義の原則に従えば、禁じてはいけない。

心理的に、この要求は極めて難しい。倫理とは、ダメなことはダメ、なのではないか。しかし、これを否定しなくてはいけない。ダメな行為を認めるべきだと自由主義が言う。

ここで、逃げ道として「自由主義を倫理として適応!」という人が現れる。残念ながら、それはできない。なぜなら、自由主義には人生の指針になる内容はないからだ。他の人の選択肢の自由を奪わないことは、自分の歩む道を特定しない。それ以上の倫理は必要不可欠だ。そして、倫理より自由主義を優先しなければならない。宗教より、優先しなければならない。神様の命令より優先。

だから、自由主義は誰でも認めるはずな内容ではない。自由主義者の間にその妄想は浸透しているようだが、そうではない。自由主義は倫理制度ではないが、他の倫理制度と対立する側面はある。実は、何の倫理制度でも、対立する側面がある。私の倫理に対立する側面がある。(すぐに思い浮かぶのは教育面だ。必要な選択力を維持する教育であれば、潜在力をかなり抑制する教育を認めなければならない。)

自由主義は、皆の人間性を尊重する哲学だ。悪徳な人間が存在するので、それは簡単なことではない。それでも、目指すべきだと信じている。


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