自由と邪悪

先に自由な社会で悪徳を寛容しなければならないと述べたが、それに加えてその寛容に限度があるとも述べた。このような但し書きは、歴史を見れば自由を潰す言い訳にされたことは多いので、そうならないように気をつけなければならない。

繰り返して、制限の必要性は強調したい。邪悪のなかに、殺人も入っている。通り魔殺人を「自由」の大義名分でも許してはいけないのは、誰も否まないだろう。明らかな常識である。しかし、限度なしに悪徳を許せば、通り魔殺人も許す。それも明らかだ。結論は避けられない。悪徳の寛容には制限を設けなければならない。

で、問題が始まる。どうやって制限すれば良いのか。まず、許さない行為を一つ一つリストアップするのは役に立たない。理由は二つある。一つは、私たちの「悪徳」の定義に反発する人は存在するので、私たちの選択の正当性を見せるために、何らかの根拠は必要不可欠だ。もう一つは、事前に問題について考えても、発生する状況の全てを思い浮かばせるわけはないので、リストに入っていない邪悪に遭うこともある。その場合どうする?リストに加えたら、私たちの都合に悪い行為を禁止する制度になりかねない。基準も根拠はないので、直感で禁じる。しかし、人の直感が異なる。それも、自由を保つ重要な理由になる。

だから、一般的な根拠や基準は必要不可欠である。しかし、これは安易な問題ではない。数百年に亘って哲学者がこの問題と取り組んできたが、まだよい解決策は見いだされていない。その努力を踏まえて、私も努力したいと思う。

第一の候補は、他の人に影響を及ぼさない行為は、邪悪でも許すべきであるということだ。しかし、先ほどの投稿で説明したように、この基準で許す行為は存在しない。だから、より内容がある基準は必要だ。

人気のある基準は、他人の自由を侵さない行為を許すことだ。残念ながら、これも同じ結末に陥る。「嫌な思いをさせられない自由は尊重してほしい」と人が訴えたら、これは自由の一種であるのは否めないので、もう一度なんでも禁じることになる。ただ、「自由」を中心に据え置くのは良いと思える。自由の種類をより厳密に定めると良かろう。

今のところ、私の提案は下記の通りだ。

他人の人生を選択する自由を侵さない行為は許すべきだ。

これは完璧ではない。しかし、問題の一部は解決できる。

まず、通り魔殺人。被害者の人生を奪ったので、人生を選ぶ自由も奪った。だから、このような行為を禁じることはできる。

そして、嫌な思いを起こす行為。嫌な思いを持っても、自分の人生を選ぶことはできるので、このような行為を禁じるべきではない。

しかし、間にある行為が問題になる。

例えば、人を殴って、ちょっとした痣をさせる行為を想像しよう。これほどの傷は、人生を選ぶ自由を損なわない。躓いたらこのぐらいなことがあるし。だからといって、このような通り魔事件を許すべきであると言い切ったら、十分おかしいのではないか。骨折を起こしたら、それが自由に制限を課すので禁じられるし、病院で手当を受けさせる行為でも、その一日の人生の自由を奪う。が、ただの痣はどうか。これは問題の一つだ。

そして、反対方面から考えよう。同性愛は宗教の多くに厳しく批判されている。ある社会で、権威のある人は皆同性愛を批判して、すべからず行為として掲げたら、その社会で本当に同性愛者の生活を選べるだろう。もちろん、法的な制限はない限り、踏み込んだら選べるが、実質的な自由は重要であると何回も述べてきた。この場合、実質的な自由はあるだろう。

悪徳として批判することだけではない、揶揄したり軽蔑する行為もそうだ。例えばバレエをする男性を軽蔑する社会であれば、男性は本当にバレエを自由に選べるか。実は、現在社会ではこのような制限があって、特に女性の自由を制限すると言われるし、証拠はなくはない。これは問題の一つでもある。

一方、行為を批判する自由は重要な自由だ。助言するために必要不可欠だし、政治活動や会議でも避けられない。同じように、他の人にちょっと不便をかける行動を許すべきであるとも思える。だから、不便と痣の間の境界を見つける方法は求められる。

ここで、「人に傷を負わせないなら良い」と言いたくなるだろうが、これは役に立たない。肉体的な傷に制限すれば、重要な傷が対象外になる。精神的な傷を覆えば、先に述べたように、何でも禁じられるようになる。この基準は、自由を保障する規則にならない。「人の傷を目指す行為を禁じる」提案はよく見えるが、殴る目標はただ腕の運動だったとか、避けられる。

歴史的に見れば、言論の自由を絶対的にする一方、行動を制限する傾向が目立つ。私は、それを避けたい。私のような哲学者には良いかもしれないが、行動を望む人には厳しい制限になる。そして、言葉は必ずしも行動より安全であるとは限らない。ヒトラー自信がユダヤ人を一人も殺さなかった可能性はあるが、そのためヒトラーの罪が軽くなることはない。言葉で殺したと言える。

だから、痣ぐらいの怪我を負わせる行為は、許すべき邪悪の範囲に入る可能性は否めない。同じように、熱意な抗弁が許してはならない範囲に入ることも考えなければならない。

そうなれば、選択肢は二つ。一つは、基準を捨てること。このような結果があれば、明らかにだめだと思って、次の候補を探す。

もう一つは、基準を容認して、常識を変えることだ。このような常識は案外簡単に変わっていくので、この選択肢も現実的だ。一方、軽く殴る行為を許すことになっても、評価しないし、批判する。他方、選択の自由を本当に制限する抗弁はかなり強いほうだから、印象は過激的であろう。

これは慎重に考えねばならない問題だから、これからも更に論じたいと思う。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: