選択する自由

先日、人生を選択する自由を基準とすれば良いのではないかと提案した。しかし、「人生を選択する自由」は曖昧で、分かりにくい。具体的に何を指すかは、今回論じたいと思う。

概念は簡単だ。職業、遊び、住居、友達、宗教などを自由に選べる状態だ。つまり、人生の過ごし方を自分で選ぶ権利だ。

もちろん、それで済めない。私は住居として皇居を望んでも、無理だ。住ませていただけない。だから、現実の世界で、この自由には制限がある。別な例として、私はオリンピック選手になりたくても、できない。もう年を取ったし、運動精神はあまりないし、そもそも無理だ。画家になることも同じだ。この自由は絶対的なことではない。

それでも、上記の例で無理なのは、叶うことだ。目指すのは可能だ。だから、第一歩は、何でも目指せる環境だ。この「目指す」は、ただの夢にはとどまらない。計画を立てて、実現に向けて具体的な措置をとることを指す。だからこそ行動の自由は言論の自由とほぼ同じ重要性がある。

計画を立てるために、将来について予想できるのは必要不可欠だ。何の財産があるか、何の時間があるか、どういう風に動けるか。この可能性を奪えば、せっかくの計画を台無しにするので、そのような行動を禁じるべきだろう。この必要性で多くの犯罪を禁じることはできるし、国家の行動も制限できる。予想外の損失をできるだけなくすべきだし、予想できる損失を設置する手続き等も決めなければならない。これは刑法の根拠となるだろう。行政法の重要な部分の基盤ともなると思う。

その上、今財産も時間もないことが分かったら、何も計画できない。だから、財産も時間も、最低限で保障しなければならない。大きく見れば、これは社会福祉の役割だ。つまり、刑法や行政法と同じレベルで社会福祉は必要だ。誰にも最低限の可能性を与えなければならない。

それでも、何でも目指せるわけはない。月に行けないが、国家の役割の一つは、それを可能とすることだろう。それはただの手法の問題だが、より根本的な問題がある。例えば、仮に私はある女優の一人の彼氏になりたいとしよう。しかし、同じ希望を持っている男性は百人いる。さらに、この女優は実は同性愛者であるので、彼氏は一切欲しくない。この場合、私も、他の男性も、女優も、目的は果たせない。このような状況で、どうやって競えばよいかも、人権を守るために定めなければならない。ここで、二人の同意を前提とするだろう。

人の愛の場合は、本当に難しいが、物の場合も同じだ。私も他の人も同じオレンジが欲しかったら、どう決めれば良いか。これはもちろん貿易だ。選択の自由を保つために、なるべく自由貿易にするべきであるのは明らかだが、それはこの自由を保つためだ。貿易の自由が人の選ぶ自由を侵したら、貿易の自由を制限するべきだ。

競うと言えば、金メダルを目指しても叶わない場合もある。競い合い方も定めなければならない。そして、保障すべき自由は、競い合う自由だ。負けたら仕方ない。負けた方はないと、勝利者も存在しないからだ。法的な制限はないことはもちろん大前提になるが、競い合う自由を保障するために、機会や財産をまた保障しなければならない。

このブログでこれからもこの基本思想の具体的な内容を論じたいと思う。


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