労働と生計

イギリスやアメリカでよく聞かれる意見は次の通りだ。働かない人には、食べる権利はない。働けない人には慈悲するべきだが、働くための体力がある人が働けなければ、餓死しても問題ではない。そうしないと、だれも働かないし、社会が崩れ落ちる。だから、社会福祉は、厳密に必要とする人に限定するべきだ。

私は、そう思えない。この投稿でその理由を説明する。

仮に、私は元気な人で、今職業を持たないとしよう。私は、努力して、生計を立てようとする。

そうすれば良い?

近所には畑は多いから、その畑から食物を収穫すればいかがだろう。それはもちろん窃盗罪だ。畑の野菜や田圃のお米は人の所有物だから、勝手にとるわけにはいかない。

では、次の手段はどうだろう。近所のスーパーに行って、働こう。良いだろう。

でも、それほど簡単ではない。ただ単にスーパーに入って、作業服をとって、働き始めることはできない。その前に採用するために申請して、審査を通って、雇ってもらわなければならない。他の職業も同じだ。採用されない限り、働かない。

残っているのは自営業だ。しかし、人を強制的にお客さんに出来ないので、自営業に苦労しても、食うための収入を得ない可能性もある。

「働かないと食う権利はない」という思想は、社会が出来る前の状態では当然で、自然である。狩猟族についている人が何もしないと、食べ物が魔法的に隣に現れない。働かないと食べない。ただし、この状況で外に出れば、見る栗や貝を食べても良い。所有物という思想は全くないからだ。現在の社会はそうではない。

畑から野菜をとること、店からカップラーメンをとすることを禁じるのは、自由を保つために必要だと前にも強調した。そうしないと、誰も自分の財産を安堵感を持って所有できない。そう出来なければ、将来の計画もできない。将来の計画は出来なければ、選ぶ自由はない。だから、その所有する権利を守らなければならない。

しかし、その権利を守れば、人には自分の意志や自分の体力で生計を立てる機会が奪われる。他の人の所有物に配慮しながら行動しなければならないからだ。

それでも、ある人の計画の自由のために、この人が死ななければならないことはない。この人の選ぶ権利は他の人と全く同じ重要性を持っているからだ。だから、二つの倫理的な選択肢がある。

一つは、無職者に窃盗を許すこと。

これは明らかにだめだ。所有物の安堵感を完全に破壊するので、人生の計画も破壊される。というより、人生の計画の重要な一部が財産を守ることに占められる。これも、自由ではない。金庫以外なことを計画したい人は多い。

では、もう一つは?

もう一つは社会福祉。生活保護。無職者にお金を出して、所有物の安堵を乱さずに生計を立てられるようにする。

もちろん、生活保護を出すための財産は、税金からとる。強制的に人の財産なら徴税する。だから、特にアメリカで反発する人は多い。しかし、根拠はない。生活保護はなければ、窃盗を許さなければならない。所有権利を保障するために、生活保護を設けなければならないので、それに必要な措置は、所有権利を侵すことはできない。税金は民主主義な国家の審議の上で決められるし、事前に知らせられるので、計画に取り入れられる。

所有権利は廃止するべきだと強調する哲学者もいるが、私は賛同しない。自分の人生の計画して実現するために、所有権は必要だ。だからこそ、充実な生活保護も必要だ。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: