試合の役割

試合の役割は何だろう。大別したら、選択肢は二つかと思う。一つは、楽しい見せ物。もう一つは、勝者を明らかにすること。

ただし、この二つの役割は、同じ試合で果たせない。

勝者を明らかにするために、強い方が必ず勝つような設定は必要だ。しかし、能力の差は多くなければ、何回も取組まないと、能力より運が結果を左右する。試験の理想はこの状況だ。点数が正確に能力を反映する試験は良質だし、運で点数が大きく変動する試験には重要な欠点がある。

しかし、このような試合は楽しくない。登場者は初めてではない限り、誰が勝つかは、最初から分かってしまうし、試合は能力の測りに適していれば逆転勝ちはないはずだ。試合の楽しさはない。

だから、見せ物の試合のために、運が大きく働くような設定は重要だ。そうであれば、結果を予想することはできないので、楽しい緊張感を感じる。スポーツなどを見たら、見せ物の要素は強い。リーグなどで、能力がほぼ同じである人が取組むように工夫するし、試合が短くされることも多い。オリンピックは典型例だろう。

これは悪くない。スポーツは娯楽の一種だから、視聴者が楽しめるように工夫するのは良い。技を振るって挑戦する姿も楽しいし、勝負の上の緊張感も楽しい。視聴者が事前に分かる限り、試合を完全に芝居にしても良い。基本的に技のみを楽しむようになるが、演技などはそうだから、娯楽として問題はない。

一つの条件はある。それは、試合の結果は選手の質を測らないことを認めることだ。負けたら、それは試合の構造のためだ。選手の能力や集中力や精神力などのためではない。負けた選手には問題があるとは言えないし、勝った選手には優れた才能があるとも言えない。両方とも楽しい見せ物を作り出すために必要な努力をしたことを認めて、両方を授賞するべきなのではないか。

このように考えれば、スポーツの形を変えるべきなのではないかと思ってくるだろう。勝利を争うことは不適切だ。視聴者が楽しめるように工夫する。そのために、技の素晴らしさも重要だが、割いてとの差は多くないことも重要。だから、ある人は上手すぎたら、試合から外すべきである。下手すぎる人も外されるのは当然だろう。そして、ドーピングはなぜ悪いかというと、この均衡を崩すからだ。スポーツのルールは、見ることは楽しいのを保障するためだから、勝利のためにルール違反すれば、スポーツの本質が分かっていないのは明らかだ。この観点から見れば、勝つか負けるかは本当に問題にならない。試合のやり方は全てだ。

この考え方を本格的に導入するために、スポーツのルールを修正しなければならないと思うが、私はスポーツにそれほど興味を持っていないので、このテーマを一発で放棄する。