裸を楽しむことは、性的であるから悪いと思う人もいる。
そうではないと私は思う。
先ず最初に「裸」と「性」の間に必然的な関係はない。裸を楽しむことは、性的なことであるとは限らない。具体例を挙げよう。私は、温泉に入れば、裸で入った方が気持ちいいと思う。性的なことではない。ただ、タオルを巻いたりすると、お湯の流れなどの感じが悪くなる。日本では、これは常識だろう。一方、性的なことをするために、裸になる必要もないし、特別な服を着た方が良いと思う人もいる。この点で、具体例を挙げない・・・
とは言え、日本の社会でも、イギリスの社会でも、「裸」と「性」の関係は深い。だから、性的な行為は根本的に邪悪であれば、裸にも問題があると認めなければならない。
しかし、私はそうも思わない。英語のホームページで十年以上前にそう述べたし、日本語のブログでも述べたような気がするので、この投稿で概略する。この投稿の目標は、橋である。
だから、簡単に言えよう。性的な虐待や犯罪は存在するが、それは性の本質ではない。性は、相手を喜ばせたり楽しませたりする行為でもあるし、子供を設けるための行為でもある。
後者を先に取り上げよう。子供を設けることは、原則として良いことだ。人類の存続のために必要なことだ。今のところ、日本の人口減少傾向を見て、政府が子供を設けることを促進しているので、政府は性交を促進している。もちろん、その言葉で言っていないが、大人であれば、それに中学生以上であれば、誰でもその意味が分かる。政府は隠蔽しているわけはない。確かに、子供を産まない方が良い場合もあるが、歌を歌うことも原則として良いことだが、歌わない方が良い場合もある。
前者は根本的に良いことであるのは表面から明らかなのではないか。人を喜ばせたり楽しませたりするのは、良い行為の典型例である。ここで良いことを大別したら、喜ばせること、成長を促すこと、自由を増すこと、知識を広げること、理解を深めることを根本的な範疇として思い浮かぶ。この五つを倫理的に評価しない相手に対する論じることは出来まい。なぜなら、それほど倫理を間違える人に言えることは極めて少ないからだ。
まぁ、言えることはあるだろうが、それほど深い話はこの投稿でしない。
だから、裸を楽しむことには性的な要素があっても、それはその行為を悪くしない。だから、ヌードルだけではなく、AVの出演でも悪くない。社会がそのような人を軽蔑するのは、社会の問題だ、その人の問題ではない。
では、性は良いことであれば、なるべく頻繁に、なるべく多くの人と一緒にするべきだろう。そう思わない。その理由について、これから論じたいのである。