歴史問題

最近、歴史問題について考えさせられた。日本の外交には歴史問題は少なくないので、度々に発生するが、その解決策について考えてきた。問題は難しいと思う。

先ず、歴史問題は、歴史に起こった出来事についての問題だ。それは言うまでもないだろうが、重大な結果がある。現在の日本政府が何をしても、問題を払拭することはできない。今、何をするとしても、歴史には問題の事実が残る。つまり、「解決策」というのは、そもそもの問題の解決ではない。現在の態度の問題を解決するしかない。

これも当たり前だと思われるだろうが、その歴史問題は甚大な被害であれば、ただ態度を直すことは物足りない気分も当然だ。多数の人が虐殺された犯罪は、謝罪で払拭できるか、との気持ちだ。しかし、犯罪を犯した人はもう死んでいれば、原則として謝罪以外何もできない。だから、被害者側には、何が問題を解決するかを決めるべきである。原因のなった状態は巻き返せないので、「被害者を甦らせない」のは当然だ。それでも、歴史問題の解決を望めば、解決として見做す行動を決定するべきだ。

「加害者」側はそうできない。加害者には、罪を償うための行動を勝手に決めるわけにはいかない。だから、被害者側の要求を待って、そして応じるかどうか決めるしかない。

応じないように決める権利がある。なぜなら、歴史問題であれば、現存の「加害者」は本当の加害者ではない。むしろ、加害者の子孫や後継者だ。その立場で責任があると認めなければならないだろうが、事実上の加害者の責任ほど重くない。だから、被害者側の要求は過剰な償いであると判断することはできる。その場合、問題は解決できないが、犯人ではないので、この問題を未解決のままで残す権利がある。

つまり、被害者側には解決する条件を決める権利があるが、加害者側には解決しない権利もある。被害者側では、問題がまだ存在することを主張することができるが、それ以上な方針をとる資格はない。問題は本当に存在するが、倫理的な責任を直接に背負う人はもういない。

(ちなみに、犯人はまだ生きていれば、厳密に言えばまだ歴史問題ではない。だから、第二次世界大戦の戦犯はまだ歴史問題ではないかもしれないが、第一次世界大戦の戦犯の問題は歴史問題になっている。第二次世界大戦の問題は歴史問題になりかけているし、犯人の殆どは死んでいるので、歴史問題として扱っても差し支えないだろう。)

これだけで、歴史問題が充分難しくなる。被害者側は、被害を痛感するので加害者側から償いはなければ、さらに傷を受ける。一方、加害者側は正しく純白であることは感じる。この人は、犯罪に関わっていなかった。日本の現首相の安倍晋三氏は良い例だ。昭和29年生まれで、戦犯の責任を個人的に一切背負わないのは明らかだ。だから、南京で何人が殺されたとしても、安倍首相が一人も殺さなかったし、命令出さなかったし、称讃しなかったので、責任はないと感じるのは当然だ。この二つの充分根拠のある態度が衝突すれば、安易に解決できないのは露である。

しかし、残念なことに、歴史問題はさらに難しい。歴史問題は歴史の事実から発生するが、誰が歴史の事実を判定するだろう。次回、その問題について論じたいと思う。


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