歴史問題の本質は、歴史的な罪を潔く認めるかどうかという問題であろう。それで、重要な問題がすぐに思い浮かぶ。
歴史の事実についての議論があることだ。
加害者側がある罪は虚偽であると主張し、被害者側に名乗っている人は捏造や歪曲を行っていると主張すれば、歴史修正主義者のレッテルが貼られる。特に、加害者側には認められた罪がある場合、この傾向は強い。日本の場合に見えるし、他の帝国主義の国の歴史にも見える。その時期に国が罪を犯したら、全ての訴えは当たると思われがちだろう。しかし、訴えは必ずしも真摯に出されたとは限らない。名誉毀損もあり得る。
被害者側の義務は簡単だ。嘘をつかずに、本当のことだけを訴えることだ。
加害者側の方は難しい。
まず、被害者側の大半の人は真摯であることを前提とするべきだと思う。罪は虚偽であるとしても、その罪を訴える人の大半は本当のことであると真摯に信じる場合は多い。歴史は過去のことだから、間違えることは少なくない。特に自分の忠心に従うために信じるべきことを信じる人は多い。だって、政府や教授がこれを歴史であると強調したら、一般市民が疑う余地はないだろう。
そして、加害者側が自分の誇りや忠心のために事実に目を瞑る可能性も見逃すわけにはいかない。罪を犯した時期には更なる罪は犯された可能性を素直に認めるべきだ。
この責任は加害者側に重いと思う。全体的に見れば、加害者側は悪かったので、相手の訴えを謙虚に受け止めて、検討するべきだ。被害者側には根拠は弱い訴えを挙げる権利がある。
それでも、加害者側が検討してから、この罪は存在しなかったと結論すると、どうすれば良いのか。この場合もあり得る。
虚偽な訴えを認めるべきだろうか。
それはどういうことだろう。一つの可能性は、被害者側に嘘をつくこと。この罪はなかったと思いながら、「はい、この罪もあった。もうしわけございません」ということだ。これはもちろん真摯な謝罪ではない。罪はないと思いながら、真摯に謝ることはそもそも無理だ。責任を感じるのも無理だ。私は、イギリスを沈没させた事件の責任を一切感じない。そういう事件はなかったからだ。この建前だけの謝罪は、失礼なのではないか。被害者側に対して子供扱いに匹敵する。「まぁ、まぁ、いい子、いい子、ごめんね」のような態度だ。これをとるべきだと言えるだろう。
それでは、嘘をつかずに謝ればどう?つまり、このような発言になる。「この罪は事実ではないと思うが、それでもお詫び申し上げる。」もちろん、これはダメだ。謝罪ではなく、揶揄に聞こえる。
では、罪は事実ではないことを主張したらどう?歴史修正主義者のレッテルだ。
悪い選択肢の中にましになるのは、問題を無視する方針だろう。なるべく触れずに仲直りを目指す。
それはどのぐらい効果的であるかは、周知の通りだ。
この場合、問題解決には加害者側は何も出来ないようだ。一般に加害者側の責任であると思われるし、その通りでもあるが、虚偽な罪に対して、加害者側には方策はない。解決を生むために動かなければならないのは、被害者側である。しかし、加害者側にはそう責める資格は一切ない。
極めて困難な問題である。